更新日: 2024年12月26日
「盲腸県境」の最奥部には何がある? 地図の〝気になるツボ〟を本当に歩いてみた【vol.02 飯豊山・後編(福島県喜多方市)】
福島県の左上、山形県と新潟県と接する部分、磐梯朝日国立公園にある飯豊山周辺には、細長い福島県が7.5キロメートルほど続く「ふしぎな県境」がある。
実際に行ってみたところ、細長い山道に沿って福島県が伸びているということがわかった。
目次
盲腸県境のまっただ中へ足を踏み入れる
この県境は、山形県、新潟県、福島県の集中する三国岳避難小屋(以降、三国小屋)から始まっている。ここまでの道程は、前回の記事で書いた通りだ。
そもそも、地図で細長くなっている県境は実際に行くとどうなっているのか? を確認するためにだけに来たといっても過言ではないので、ここまできて「山道だな」ということがわかればもう帰ってもいいかもしれない。
だがしかし、はたしてそれでよいのか。
ここまで来ておいて「県境を見たので飯豊山に登頂せずに帰ります」というのは「仁和寺にある法師」じゃないんだからという気もするので、三国小屋からひとまず、飯豊山山頂近くの本山小屋まで目指していくことにした。
というわけで、三国小屋を出発する。
三国小屋から本山小屋までは、山の峰に沿って、登ったり降りたりが続く。
すでに標高は1500メートルを越えて、2000メートルに近い高さを登り降りしている。この高さになってくると、夏でも溶け切らない根雪が谷筋にそっていくつも残っている。
誰しも足がすくむ最大の難所「御秘所」
そして、御秘所(おひそ・ごひしょ・おひしょ)と呼ばれる場所にやってきた。
ここは切り立った岩の峰が山道となっており、その幅は2メートルもない。峰の両側は崖で、わりと高いところが平気な僕でさえ、普通に足がすくむ。当然だが、一歩踏み間違えると死ぬ。ここは鎖を頼りに登っていかなければならない。
地図で確認してみると、御秘所の山道から谷底の沢まで、100~200メートル近い斜面となっている。
池袋のサンシャイン60ビルの展望台が220メートルほどということを考えていただければ、その高さがおわかりいただけると思う。
そして、もちろんこの御秘所も、細長い県境であることには代わりがない。
8時間歩き続けてようやく見えてきたのは……
岩によじ登りつつ、草を踏み分け、坂を登ったり下ったりを繰り返しながら、歩くこと8時間あまり、いよいよ最後の急坂に差し掛かった。
この急坂を一歩ずつ登り切ると、急に目の前が開け、ついに本山小屋に到着した。
小屋についたときはすっかり夕刻になっていた。レトルトカレーとご飯、スープ、そしてコーラという山小屋の晩ごはんをいただく。
山小屋では特に何もすることはないが、めちゃくちゃいい景色だけがあった。
極上の夜明けに背中を押されいよいよ山頂へ
そして、翌朝。
日が昇ると、ひとまず、飯豊山の山頂まで行くことになった。
本山小屋からは歩いて数十分ほどのところだ。
県境を見るために、ついに、飯豊山の山頂までやってきた。
なにがしたいのかよくわからなくなってきたが、ひとまずの達成感はあった。
しかし、これから麓の登山口までの下山が始まる。登山は登る方よりも下山する方がかなりしんどかった……のだが、往路と変わらないので省く。
飯豊山神社奥宮と古来より続く通過儀礼
本山小屋のすぐ横には飯豊山神社の奥宮がある。
コンクリート造りの小屋だが中に祠があり、麓で見た飯豊山神社の奥宮ということになっている。
実は、福島県に細長い県境ができたのは、この飯豊山神社の存在とは切っても切り離せない。飯豊山神社があったために、細長い県境ができた。
飯豊山神社の由緒については、前回記事でも触れたが、飛鳥時代からの古い歴史がある。創建された時代から現在に至るまで、周辺地域から篤く信仰されている。
特に会津地方では、昔は男子は15歳になったら飯豊山に登山し御秘所を越えるのが、大人になるための通過儀礼とされていたという。
それほどまでに、地域からの信仰を集めていた飯豊山だが、飯豊山は越後、出羽、陸奥の三カ国の接点ではあった。
ただし、江戸時代は、会津藩が越後国の東蒲原(ひがしかんばら)郡も領地としていたため、特に境界による問題は発生してなかった。
廃藩置県による福島県成立と会津分県運動
そんななか、徳川幕府が倒れ、明治維新が成立し、版籍奉還と廃藩置県が行われると、にわかに混乱してくる。
江戸時代、現在の福島県域には、会津藩の他に幕府の直轄領や小藩など、さまざまな藩が存在していた。
維新直後には、それらの藩がそのまま県となり、1871(明治4)年の7月には福島県、若松県、白河県、二本松県、中村県、三春県、磐城平県、泉県、棚倉県、湯長谷県の10県が誕生する。これらの県のほとんどは数ヶ月の短命で、同じ年の11月の府県統合で集約され、若松県、福島県、磐前県(いわさき)の3つの県が成立した。
そして、若松県、福島県、磐前県の3県は1876(明治9)年8月21日(現在の福島県民の日)に合併し、福島県として成立する。このとき県庁は福島市に置かれた。
ところが、福島県としてひとつになったとはいえ、かつての大藩であった会津若松や、交通の要衝として福島を凌ぐ発展を遂げていた郡山など、各地に独立の気風があり、なかなかひとつにまとまるというものではなかった。
特に、自由民権運動の激しかった当時は、独立自治の運動も盛んで、福島県では県庁を郡山に移転するという運動が1882(明治15)年には起き、また1881(明治14)年ごろから1883(明治16)年にかけて会津若松の分県運動というものも起きている。
もっとも、若松分県運動は政府に却下されるものの、県庁の郡山移転に関しては、一時は福島県議会の賛成多数で移転が決議されるにまで至る。
これは、福島市は福島県のなかでも北側に寄っており、県内各地との交通が不便であるという理由もあった。
しかし結局、内務省の裁定でこの県議会の決議は却下されてしまう。当時は中央政府の意向に逆らうような陳情は今とは比べものにならないほどの不穏で際どい運動であった。
ちなみに、この時期の福島県県令は、鬼県令と呼ばれた三島通庸(みちつね)である。
辺境の一郡の新潟県移管で県境紛争勃発
県庁移転案が却下されると、政府は会津藩領の時代から引き続き福島県とされていた東蒲原郡を「県庁が遠い」という理由で、新潟県へ移管するという処分(1886(明治19)年)を行う。
今から見るとこの移管は「そんなに文句を言うならば、県庁から遠い領地を他の県に分割したるがな」という懲罰的な、または会津の分県独立に釘を刺すための処分であったのだろう。
さて、ここでようやく、飯豊山の細長い県境の話に繋がってくる。
この東蒲原郡の新潟県移管により、飯豊山の山頂と飯豊山神社の奥宮があった場所は山形県と新潟県の県境付近となり、場所としては新潟県の中に入ってしまうことになった。
これに納得できなかったのが、当時の福島県の一ノ木村の人々だ。飯豊山神社の麓宮は麓の一ノ木村にあるのに、奥宮が新潟県にあるのはおかしい。
一方、新潟県の実川村は、東蒲原郡が新潟県に移管されたわけだから、飯豊山神社の奥宮があるのは新潟県だという主張が対立し、県境紛争が勃発する。
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【筆者】西村まさゆき
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地理・地図・歴史分野の執筆が多い社会科ライター。移動好き。好物は海藻。東京都中央区月島在住(鳥取県倉吉市出身)。著書に『日本の路線図』(三才ブックス)、『たのしい路線図』(グラフィック社)、『ふしぎな県境』(中公新書)『ファミマ入店音の正式なタイトルは大盛況に決まりました』(笠倉出版社)。