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【本能寺の変 ルート解説】明智越え
本能寺の変で明智軍が進んだとされる3つのルートの最後は、ズバリ「明智越え」です。亀岡市保津町から柚子の里で知られる水尾を経て、嵯峨野の鳥居本へと至る約15kmほどのルートです。他の2ルートが保津峡の南側の山域を並走するように進むのに対して、この明智越えは、保津峡の北側、愛宕山のふもとを抜けていきます。現在ではハイキングコースとして整備され、比較的歩きやすい道となっています。
明智光秀は山城国と丹波国を行き来する際、度々このルートを往還しています。また、本能寺の変の直前や丹波国攻略など戦の前には、愛宕山山頂にある愛宕神社に参拝し戦勝祈願を行うなど、光秀とゆかりの深いルートです。
JR亀岡駅からのアプローチ
スタート地点はJR亀岡駅。北改札を出ると、真新しい巨大なサンガスタジアムがお出迎え。ぐるっと回り込むようにして桂川へ出て、保津橋を渡ります。橋の欄干からはぐるっと亀岡盆地を見渡すことができます。橋の対岸には今から向かう明智越えの山が待ち受けます。また南東方面に目を向ければ、老ノ坂峠やからと越えルートの山が見えます。
橋を渡って1つ目の信号(保津八幡宮のある場所)を右折します。ここから保津街の集落を抜けていきますが、途中には「明智越ハイキングコース」の看板があるのでそれに従って進みます。
集落の中心にある文覺寺のY字路を右へ取ります(ちなみに左へ行けば神明峠を経て水尾に至る)。この文覺寺の山門には桔梗の御紋が刻まれており、丹波亀山城から移築されたものではないかと云われている。
少しずつ上り坂となり、集落のはずれから山道に入るところが、明智越えの登山口となります。
保津城址~峯の堂
いよいよ明智越えに入ります。基本的に全区間がハイキングコースとして整備されており、道は明瞭で歩きやすいコースです。
雑木林へ分け入るようにして登山道を進んでいくと、すぐに少し広々とした空間に出ます。案内板によれば、ここにはかつて保津城があった場所です。この保津城は築城時期や築城者は定かではありませんが、南北朝時代には攻め落とされたという記録があるのでそれ以前から存在した古城のようです。現在でも、堀切や土塁など城郭の跡が確認できます。光秀の時代にも城が存在していたかどうかは不明ですが、愛宕神社への参拝路で、京へ続く交通路の起点に位置する場所なので、何らか詰所的なものが置かれていたかもしれません。
保津城址を左手から巻くようにして、少し急な登り坂を上っていきます。この一帯は古くから文化があったようで、古墳跡などコース上にはいくつもの史蹟の案内板が建てられています。
登山口から約40分ほどで、峯の堂(むねんどう)と呼ばれる場所にたどり着きます。案内板には清和源氏の祖として有名な第56代天皇である清和天皇が出家して隠遁生活を送り、この地で崩御され、祀られているとあります。また光秀が本能寺の変の直前に愛宕詣でをした帰りに、ここでも必勝を祈願したとあります。光秀の出自は土岐源氏の庶流と云われているので、源氏の祖である清和天皇を祀る社に祈願したとしても不思議はありません。本能寺の変には成功した光秀ですが、その直後に秀吉に敗れ、悲運の最期を遂げたことを嘆き、いつしかこの峯の堂が転じて無念堂に変わったということです。
土用の霊泉まで
峯の堂からは歩きやすい尾根道が続きます。森の中を進むルートなので眺望はあまり期待できませんが、時折眺望が開けるところからは北に牛松山が見え、南側にはもう一つのルートであるからと越え(みすぎ山付近)も垣間見えます。道は明瞭で、要所要所に案内板が立っているので道迷いの心配もありません。ただ、この辺りも台風による被害で倒木が立ちふさがる箇所があったり、道が崩落しているところがあります。崩落の場所からは山の向こう側に嵯峨野の街並みが見えてきました。ただしあまり景色に見惚れてロープの外側に出ると危険なので要注意です。
しばらく進むと土用の霊泉という場所にたどり着きます。ここはどれだけ暑い夏の土用でも水が枯れることなく湧き出たといわれています。光秀は本能寺へ向かう際に、ここで止血止めの効果のある三七草を霊泉に浸して蘇らせ、それをお守りとして鎧の下に忍ばせたと云われています。付近にそれらしい湧き水のポイントがあるか探してみましたが、残念ながら見つけることはできませんでした。
水尾周辺
土用の霊泉を過ぎて、さらに15分ほど尾根道を進むと2つ鉄塔をくぐるポイントに出ます。ここは眺望が効いていて、南側にはからと越えの山並みが、そして北西にはわずかに亀岡市街が見えています。本ルートはここまで広々とした場所がなく、この鉄塔の下は絶好の休憩ポイントになります。
鉄塔を抜け、さらに進むと、分岐点に到達します。ここを案内板に従って右へ進みます。ちなみにまっすぐ進めば、新明峠を経て水尾集落に至り、そのまま愛宕山の登山口へとつながっていきます。こちらは光秀が愛宕詣でをした際に通ったと思われる道です。
この分岐を少し下ると、左手の眺望が開ける場所があり、愛宕山が目前に迫ってきます。また、中腹には柚子の里として知られる水尾集落が広がっています。この辺りから道は一気の下りとなります。場所によっては道が深くえぐれて足場が悪く、歩きづらい箇所があるので、転倒しないように注意して下る必要があります。山道を下りきると水尾川という小川にぶつかり、明智越えハイキングコースはここで終了です。
保津峡周辺
水尾川とぶつかる分岐では、左手(北側)に水尾集落へ向かう道、右手(南側)にJR保津峡駅へ向かう道に分かれ、明智越えは右手になります。しばらくは水尾川のすぐそばを進む遊歩道が続き、快適に歩くことができます。そのうち、道は県道50号と合流しますが、この道は車やバイク、自転車などが行き交ううえに、見通しの悪い道なので、通行には注意が必要です。
30分ほど歩けば、JR保津峡駅にたどり着きます。ハイキングでは通常ここがゴールとなりますが、明智越えはまだまだ先へと続きます。この辺りは保津峡の核心部にあたり、桂川が亀岡盆地から唯一下流へと逃れる流れは狭隘な山間部を蛇行して険しい渓谷をなしています。亀岡から嵐山まで直線距離にして約7kmのところを約12kmかけて流れているのですから、いかに川が蛇行しているかがわかります。この保津峡は、京都屈指の景勝地であり、川下りやラフティング、トロッコなど観光名所にもなっています。
さて、県道50号は、その川の真上の断崖を進んでいきます。途中、トロッコの駅を対岸に見やり、その先のトンネルをくぐると、朱塗りの橋が架かる清滝川にぶつかります。
六丁峠
清滝川を越えると、そこから道は一気に急なつづら折れの道となり高度を上げます。ここにきての急登はかなり厳しいものがあります。いくつものヘアピンを越えていくと、前方に嵐山・高雄パークウェイの高架が見え、そのました辺りのピークが六丁峠です。峠の向う側、嵯峨野鳥居本にある一の鳥居から六丁の距離にあることからこの名がつけられています。
鳥居本から嵐山
六丁峠を過ぎ、薄暗い森の道を一気に下ると、突如目の前に大きな鳥居が現れます。これが愛宕詣での起点となる一の鳥居で、嵯峨天皇の管理下で建てられました。この一の鳥居を1丁目として、愛宕山山頂の愛宕神社まで50丁あり、1丁ごとに丁石が置かれました。
この鳥居本の辺りは元々「化野(あだしの)」と呼ばれ、京の人々の埋葬の地でしたが、愛宕詣での門前町として栄え、今では伝統的建築物保存地区に選定される趣のある町並みが広がっています。鳥居本を下っていけば、京都随一の観光名所・嵐山です。
ということで、明智越えルート解説でした。一説によれば、この明智越えこそ、3つのルートのうち、光秀率いる本隊が通過したとされています。しかし、3つのルートのうち、京へ入るのに最も遠回りになるうえに、2度の登り返しがあり体力的にも厳しいコースです。迅速に事をなさねばならない状況下で、時間的ロス体力的ロスの大きいこのルートを用いることは考えづらいように思います。また、ほかの言い伝えにあるように、もし山陰道の篠村八幡宮で軍議を開いたとすれば、そちら側からわざわざ一度戻る形でこちらに兵を割いて進行させる必要もありません。ただし、本能寺の直前に愛宕詣でをしたことは間違いなく、光秀ゆかりの道であることは間違いありません。
【本能人の変 番外編】愛宕山
本能寺の変にまつわる3ルートのほかに、もう1か所重要な場所があるのでオマケで紹介します。それは、それぞれのルートからも眺めることのできた愛宕山(あたごやま)です。愛宕山 とは京都盆地の北西部にある、山城国と丹波国の国境にある標高924mの山。同じく京都盆地の北東部にある比叡山と並んで、信仰対象の山とされ、山頂には愛宕神社の総本山があり、火伏せ・防火の神様として崇められています。比叡山延暦寺が織田信長と対立して焼き討ちにあったのとは対照的に、愛宕権現は信長の庇護を受けました。
明智光秀と愛宕山
本能寺討ち入りの直前の5月27日、光秀は亀山城の北西にある愛宕山にわざわざ登って、愛宕権現を参拝し、戦勝祈願しました。さらに、愛宕山山頂の寺・太郎坊で三度もおみくじを引いて、自らの運命を占ったとされています。また翌日の5月28日には場所を西坊という山中の別寺に移して連歌の会を催し、そこで光秀は「時は今 雨が下知る 五月哉」(五月雨が降りしきるこの時期、今こそ、私が天下を取る時)という歌を奉納し、謀反に向けて決意を固めたといわれています。
愛宕山(愛宕神社)へのルート
愛宕山への登山道はいくつかありますが、主たる登山道は清滝ルート(表参道)です。嵯峨野の奥座敷・清滝にある猿渡橋を登山口とし、急峻な階段が続く道を登っていく。標高差約850m、距離4.5km、平均所要時間は約2時間。道中には、鳥居本にある一の鳥居から愛宕神社まで、1丁ごとに目印が置かれ、全部で50丁となる。道はよく整備され、また市街地からも近いが、毎年のように遭難者が後を絶たないため、きちんとした登山装備をして登ることをおすすめします。
本能寺へ向かう各ルート上でも、愛宕大権現の常夜燈がいくつも立ち並び、歩みを後押ししてくれていましたが、光秀もきっと”愛宕さん”が常に見守ってくれているという心強さを感じながらの進軍だったのではないでしょうか。
おわりに
ということで、「本能寺の変 明智光秀行軍ルート(老ノ坂峠) 実踏レポ」でしたが、いかがでしたでしょうか。言い伝えのある3つのルートそれぞれを実際に歩いて検証することで、光秀の心境に少しは迫ることができたという思いと同時に、ますます歴史の謎は深まっていくばかりです。これだから歴史は興味深い!最後に実際に歩いた2人による総括で締めくくります。
編集者T
439年前の当日、本当に1万3000人もの兵が暗がりの道を歩いて行軍したのかと驚かされました。さらに歩いているうちに、環境も人間の常識も今と当時とでは全然違っていたのだと気付かされ、「当時はきっとこうだったのでは?」という想像がどんどんふくらんできました。さて、1万3000人が2列になって前後1m間隔で歩いたとしても先頭から最後尾まで6.5㎞もの行列になります。ざっと見積もって先頭が老ノ坂峠にかかったころに、最後尾が丹波亀山城を出発するという規模です。そう考えると、いくつかの道に分かれて進むという説もうなずけます。また、当時の人は何時間もかけて歩くことにまったく抵抗はなかったのでしょう。夜通し行軍したあとに戦うのですからスゴイ。刀や槍を振るう精度はかなり下がり、足の踏ん張りも利かなくなります。信長が槍で応戦して明智軍を蹴散らすシーンがドラマなどでありますが、「寝起きの信長は冴えに冴えていて、明智の兵は夜通し歩いて来て、疲労のなか戦っていたのだから、そりゃそうだ。」と同情してしまいます。歴史を追体験してみると、学校の授業で学ぶだけでは味わえない歴史ロマンを感じることができました。
編集者H
普通の山歩きやウォーキングと違い、実際にあった史実について想像を膨らませながら歩くというのは趣のあるものでした。そして、日常の見慣れた風景や町並みも、深く掘り返してみると、これだけのドラマや背景が隠されているのだという驚きと楽しみに気付かされました。地図を見て想像し、また実際に町歩き・山歩きを通して、フィールドを使って遊ぶというのは実に面白いものなので、ぜひみなさんにもおすすめします。ただ、もう二度と真夜中の首塚大明神にはいきません!!
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