更新日: 2021年9月12日
都電荒川線(東京さくらトラム)歴史さんぽ~渋沢栄一ゆかりの電車
東京を走る路面電車、都電荒川線(東京さくらトラム)、おでかけ番組や雑誌、Webでも頻繁に登場する下町と山の手を結ぶ12kmの路線です。
通勤通学通院買い物など生活に密着した路線でありながら、どこかのんびりとした空気、沿線に散らばるそこそこ著名な観光スポットとの微妙なバランスが人気の秘密かもしれません。
この荒川線、明治・大正の頃まで遡れば、いま大河ドラマで話題の渋沢栄一の名が登場します。「渋沢栄一ゆかりの電車」とも言える都電荒川線、その歴史とともに辿ってみましょう。
最後にはとっておきの「都電スポット」もご紹介します。
目次
都電荒川線(東京さくらトラム)ってどんな電車?
荒川線は全長12.2km、昭和40年代まで東京の街路を網目のように走っていた路面電車「都電」で唯一廃止にならずに残った路線です。
荒川区の三ノ輪橋から王子、大塚を経由して新宿・早稲田まで30の停留所があり、全線乗ると約1時間かかりますが運賃はたったの170円、もしかしたら時間換算で日本一安い電車かもしれません。
沿線には花の名所や史跡旧跡、下町チックな商店街など様々な見どころやスポットが点在しています。
そんな荒川線を巡るには1日乗車券が便利です。大人400円なので3回乗れば元がとれます。乗車時に運転手さんに申し出て購入しますが、手持ちのPASMO・Suicaに記録してもらうこともできます。
ひたすら検索サイトに入れた目的地を目指すのも良いですが、たまにはスマホをしまって車窓を眺め、見かけた気になるスポット目指して途中下車、ということもおすすめです。隣の駅が見えるほど駅間も短いので、ひと駅歩いてもたいしたことはありません。
都電荒川線(東京さくらトラム)と渋沢栄一
いま大河ドラマ放送中、2024年から1万円の肖像となる明治時代の実業家、渋沢栄一。
渋沢栄一は北区王子の地に製紙工場をつくり、晩年の明治末期から亡くなる1931年(昭和6年)までは飛鳥山に居住していました。
荒川線の祖先、王子電気軌道の開通は明治時代。路線は製紙工場(跡地)のすぐ横を走り、飛鳥山をぐるりと回っています。渋沢栄一との関係もあったに違いありません。さっそくその「ゆかり」を辿っていきましょう。
都電荒川線(東京さくらトラム)は「王子電車」として明治44年に開業。渋沢栄一も援助
今は東京都営の「都電」ですが、1911年(明治44年)の開通時は私鉄の郊外電車「王子電気軌道(王子電車)」でした。
既に開通し工場も増えてきた今の東北線や常磐線をつなぎ、農村が点在する沿線の活性化を目指して地元滝野川村の出資者により設立されています。
ところで明治の末頃、東京の電気は各地に設立された民間の電気会社から供給されていましたが、「王子電気軌道」の主たる目的もそのひとつでした。巣鴨や荒川に建設した火力発電所や、栃木の水力発電所から送電された電気を各戸に配電しつつ、余剰となる電気を活用して電車を動かしていたのです。
電気事業の収入が電車運賃収入の2倍という頃もあったように、電車はあくまで「副業」的な扱いでした。
王子電気軌道が最初に開通したのは1911年(明治44年)8月、まず山手線の「大塚」~「飛鳥山上」間です。日露戦争後の不況による資金難もあったそうですが、ここで渋沢栄一が力を貸しています。
当時渋沢栄一は71歳、既に経済界の一線から引退し飛鳥山に居を構えていた頃ではありますが、地元ということもあって協力したのかもしれません。
2年後の1913年(大正2年)「飛鳥山下(現梶原)」~「三ノ輪(現三ノ輪橋)」間が開通、荒川の沿岸に待望の電車が走ります。王子側の終点はその後少し延びて今の栄町までとなり、渋沢栄一の興した王子の製紙工場のすぐ近くにありました。
飛鳥山を挟んで東西が別路線になっているのは、間に省線(現JR東北線)が通っていたからで、飛鳥山にトンネルを掘って両線を繋ぐ計画もあったそうです。
沿線は畑と田んぼが広がる牧歌的な土地。そのため線路は道路上ではなく通常の鉄道と同じ専用の軌道敷がほとんどで、それが後に荒川線となって存続する大きな理由にもなりました。
ともかく王子電気軌道はいつしか「王電」と呼ばれ、地元の期待を背負って走り出します。
尾久温泉の発見でスパリゾートへ
せっかく開通した「王電」ですが、もともと人口が少ない地区でしたので思ったように乗客が増えず、電気事業の収益でなんとか経営を続けます。
そこに1914年(大正3年)、思わぬ契機が訪れました。沿線途中今の荒川区「宮ノ前」にある碩運寺の住職が井戸を掘削したところラジウム温泉を発見、寺の中に参詣客用の温泉施設「不老閣」を開業します。
温泉が出れば旅館や飲食店が建ち、飲食店が増えれば湯女の接待も、と歓楽街へと街が変貌します。
「尾久温泉」と称された一帯には料亭や旅館が20軒以上、芸姑300人余の花街を形成、寄席や映画館、野球のスタジアムも立地する大レジャーゾーンとして名を馳せ、「王電」も観光客誘致に力を入れることになりました。
飛鳥山から見渡せるかつては藁葺き屋根の農家が点在していた地区の様変わりを、渋沢栄一はどのような眼差しで見ていたのでしょうか。
オトナのレジャーセンター「あら川遊園」がオープン
1922(大正11年)には王子電気軌道役員の援助も得て煉瓦工場の跡地に「あら川遊園」がつくられますが、いまの「あらかわ遊園」とは異なり「大人のレジャーセンター」として人気を集めました。
当時の案内チラシを見ますと
・東京に最も近き避暑地
・暑さ知らずの仙境 風景絶佳
・有名なるあら川大瀧あり
・面白き余興夜間もあり
とキャッチコピーが並び、園内設備として
・角力土俵の開放
・運動機械器具完備
・安全遊泳場の開放
・各種珍奇動物
・演芸場連日開場
・日本料理部の大設備
・入浴随意
・水上自転車
・遊覧モーターボート運転
・安全飛行塔数十台
など、魅力的なアイテムの数々が記載されています。
あら川遊園は昭和に入り世界恐慌や満州事変勃発の不景気で経営が悪化、1932年(昭和7年)、遊園創設者広岡勘兵衛の死去もあって王子電気軌道がその経営を引き継ぎ、電鉄直営のレジャー施設となりました。
なお、あら川遊園は戦後東京都に移管され、都内唯一の公立遊園地として児童用に整備、低料金の親しみある遊園地として、いまも定番的な人気を有しているのは記すまでもないことですね。
「王子電車」の最盛期をいまに伝える歴史的ビルが健在
温泉発見時の1914年(大正3年)に年間20万人ほどだった王電の乗客数は、尾久温泉の盛況や沿線への工場立地もあって10年後の1924年(大正13年)には約240万人と10倍以上に増加します。
昭和に入ると省線(現JR東北線)が都道を乗り越える高架となったことから王子駅への乗り入れが叶い東西の路線が繋がりました。赤羽方面への新路線開通、早稲田までの延伸も行われ、王電がもっとも華やかだった時代になります。
この頃三ノ輪橋に鉄筋コンクリート3階建ての王電ビルヂングが竣工、写真館や商店が入った駅ビル的な施設だったようです。国道4号、日光街道に面した壁面には大きな沿線案内図を掲げてPRを行いました。
太平洋戦争と尾久温泉の衰退
やがて太平洋戦争が始まり、あら川遊園にも高射砲陣地が置かれレジャーどころではなくなります。
1932年(昭和17年)、戦時統制の国策により電力事業と軌道事業を分割・移管して王電は解散・消滅してしまいました。電車線は東京市電、後の東京都電の一路線として再出発、これが今の荒川線に続いていきます。
尾久の温泉は戦後周辺工場での地下水汲み上げなどの影響でやがて枯渇、温泉がなくなると花街もだんだんぼやけていきました。
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