更新日: 2024年7月30日
【大阪 渡し船】水都大阪で渡船めぐり ご近所プチ船旅(無料で遊べるおでかけスポット)
かつて「八百八橋」と呼ばれた水の都・大阪。
いくつもの河川や運河が網の目のように広がる大阪ベイエリアでは、8か所にある渡し船が、今もなお市民の足として現役で活躍しています。
大阪の渡し船は、すべて大阪市によって運営されている交通インフラなので、運賃は無料、誰でも利用できます。身近な場所で、プチ船旅を楽しんでみませんか?
目次
【大阪 渡し船】大阪の渡船について
現在大阪市内には、市の運営する8か所の渡船場があり、15隻の船が、通勤・通学・買い物などのための市民の足として現役で活躍しています。まずは大阪の渡船について簡単に紹介しましょう。
大阪の渡船の歴史
水の都・大阪の港湾地帯では古くから人々の往来のため数多くの民間の渡船場が設けられていましたが、明治40年からすべての渡船場が市営事業として市の管理となります。大正9年より、旧道路法の施行により、渡船は無料となり、昭和10年ごろには渡船場は31か所、年間利用者は歩行者約5752万人、自転車等は約1442万台を数えるほどになります。しかし、その後多くの橋が建設され、自動車道路や鉄道網の整備が進むにつれて、渡船の利用は次第に減り、現在では8か所、約162万人の利用者となっています。
大阪の渡船はなぜ今も現役?
自動車道路や地下鉄、バスといった交通インフラが発達している現代、それも大都会・大阪でなぜ今も現役で渡船が稼働しているのでしょうか。渡船場が点在する大阪市のベイエリアには、いくつもの河川や運河が網の目のように張り巡らされています。それらの水辺に隣接して多くの工場や機械施設等が立地し、それら施設への資材や原料の搬入出のため、大型の船が河川や運河の奥深くまで出入りします。そのため、河川に架けられる橋の数が制限され、また運搬船が航行可能な大型サイズの橋のみが建設されることとなりました。ところが、それらの施設に勤める労働者や、当地域に暮らす人たちにとっては、通勤・通学などの際に、大きな橋をわざわざ上り下りしたり、橋のあるポイントまで大きく迂回しなければならないという不都合が生まれたため、生活に必要な交通インフラとして渡船は今も稼働を続けているのです。一般の市道や橋が無料で通行できるのと同じで、この渡船も一般の通路として存在しているので、運賃は無料です。
大阪の渡船場はどこにある?
大阪市の渡船は、港区、大正区、西成区、住之江区の4区にまたがる港湾エリアに点在し、大川(旧淀川)から派生した、安治川・尻無川・木津川の3川を主に渡すために設置されています。
①天保山(てんぽうざん)渡船場
②甚兵衛(じんべえ)渡船場
③千歳(ちとせ)渡船場
④落合上(おちあいかみ)渡船場
⑤落合下(おちあいしも)渡船場
⑥千本松(せんぼんまつ)渡船場
⑦木津川(きづがわ)渡船場
⑧船町(ふなまち)渡船場
それではそれぞれの渡船場を紹介していきましょう。
【大阪 渡し船】天保山渡船場
海遊館などがある天保山と、ユニバーサル・スタジオ・ジャパンのある桜島を結ぶ航路は、岸壁間で約400mあり、8つある航路の中で最長の航路です。大阪湾に最も近く、大型の貨物船や観光客船も往来するので、比較的波があり、船旅らしさを感じることができます。所要時間は約2分ほど。(船は桜・海桜が就航)
航路の真上に阪神高速4号湾岸線の天保山大橋が架かっていますが、そちらは自動車専用の大型橋梁。歩行者や自転車にとっては、安治川を渡る最も河口に近い海際の本ルートがこの天保山渡船場になります。もしこの渡船がなければ、歩行者や自転車は約4㎞先の弁天町まで大きく迂回しなければ安治川を渡ることができません。
大阪でも有数の観光スポットを結ぶとあって、地元民だけでなく観光客や、観光スポットのスタッフなど、様々な人が日々利用しているにぎやかな渡船場です。
【大阪 渡し船】甚兵衛渡船場
甚兵衛渡船場は港区市岡と大正区泉尾をつなぐ航路。岸壁間役94mほどの小さな航路。両岸に学校や大型スーパーなどがあるエリアなので、学生や買い物客でラッシュ時には混雑する、最も利用客の多い渡船。朝の通学時間帯には船が2隻体制となります(船はすずかぜ、きよかぜが就航)。かつてNHKの人気番組『ドキュメント72時間』でも取り上げられたことのある渡船場です。
この尻無川の堤は、その昔、「摂津名所図会大成」に描かれるほどの紅葉の名所で、甚兵衛の小屋は「蛤小屋」と呼ばれ、名物のはまぐりはしじみを賞味する人が絶えなかったのだとか。
また甚兵衛渡船場のすぐ北側には、日本に3か所しかないアーチ型水門の1つ尻無川水門があります。(アーチ型水門については後述します)
【大阪 渡し船】千歳渡船場
大正内港の両岸、大正区の北恩加島と鶴町をつなぐ、岸壁間約371mの航路で、唯一河川ではなく港(海)に設けられた渡船です(船ははまかぜが就航)。大阪港に架かるなみはや大橋や港大橋、昭和山などがぐるりと見渡せる絶景のロケーションが楽しめます。
大正から昭和にかけて、初代の千歳橋が架けられその上を市電も走っていましたが、大阪港復興計画の一部として大正内港化が決定、その工事により1957年に橋が撤去されたため、その代替として千歳渡船場が開設しました。2003年に現在の千歳橋が開通するも、海面からの高さが28mもあり、歩行者や自転車の利用には不便なため、渡船は橋開通後も存続することとなりました。
【大阪 渡し船】落合上渡船場
大正区千島と西成区北津守を結ぶ、岸壁間約100mの航路(船は北斗、福崎丸が就航)。木津川には合計4本の渡船がありますが、その最も上流側にあります。
かつては関西随一の木材市場を支えた「大正運河」(現在は埋め立てられて千島公園となっている)の木津川側の入口がこの渡しの南側にあったそうです。また、すぐ北側には、日本に3か所しかないアーチ型水門の1つ木津川水門が見え、その左に分岐しているのは三軒家川で、江戸時代には北前の廻船の碇泊地だったそう。
【大阪 渡し船】落合下渡船場
落合下渡船場は、大正区平尾と西成区津守を結ぶ航路で、岸壁間は138m(船はさざなみ、みどり丸が就航)。天保10年(1839年)の「大坂湊口新田細見図」にも当地と思われる場所に「ワタシ」の記述があります。津守の名称は古く万葉集にも登場する地名。
両岸には工場が立ち並ぶ無機質な景色が広がりますが、この一帯には毎年10月から翌年4月にかけて、数百羽のユリカモメがやってくる飛来地でもあります。
【大阪 渡し船】千本松渡船場
大正区南恩加島と西成区南津守を結ぶ、岸壁間230mの渡船場(船ははるかぜ、ちづるが就航)。大正時代中期に設けられたとされるが、昭和48年、真上に千本松大橋が完成し、それに伴って、渡しは廃止される予定になっていました。しかし、千本松大橋は木津川両岸にある造船所で建造した大型船の運航に支障のないように、36mもの高さ(ビル12階に相当)に設けられたため、周辺住民から渡船場廃止撤回の声が上がり、現在まで存続しています。西成区側は、天下茶屋や玉出、岸里といった駅に近いため、通勤・通学にこの渡船を利用する人は多い(木津川に架かる渡船がなければ、大正まで大きく迂回が必要になる)。
千本松大橋は、狭い立地で高さを稼ぐために、両岸に720度のループ橋を構えていることから、地元からは”めがね橋”の愛称で呼ばれています。歩道が設置されているので、歩行者や自転車も通行可能ですが、体力に自信がないとなかなか骨が折れます。お年寄りや子供などが毎日行き来するにはかなりハードであることは間違いありません。ちなみに橋の最上部からはミナミやキタのビル群を望むことができ、なかなかの眺望です。
ちなみに、千本松の地名は、この堤防の上に植えられた松並木に由来します。江戸時代には、木津川は諸国の廻船の出入りが激しいところだったため、舟運の安全のために水深を確保するとともに、防波堤の役割を果たす約870間もの大規模な石堤(石波戸(いしばと))が、幕府の命によって天保3(1832)年に築かれました。「摂津名所図会大成」によれば、天橋立、三保の松原と並び称されるほどの松並木であったそう。舟遊びや潮干狩りで賑わう風光明媚な場所だったというのは、現代の、工場が立ち並ぶ光景からは全く想像できませんね。
南港の新着記事
※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。
まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!