更新日: 2021年2月11日
【連載エッセイ・第17回】猫と田舎で暮らしてみた~6匹と僕たちの里山生活~
東京生まれ、東京育ち。9年前に奥さんと、大分・国東半島へ移住。
そこで出会った猫たちと、こんどは、自然豊かな伊豆の田舎へ。
ゆっくりと流れる時間のなかで、森や草むらで自由に駆け回る猫たちと、一緒に暮らす日々のあれこれをお伝えしていきます。(毎週火曜日・金曜日に公開)
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冬の金色、春の金色
冬の金色はストーブで焼いたサツマイモの色。春の金色はキンカンで作ったマーマレードの色。そして毎日の金色は罪のない猫たちの寝顔。
昼間の陽射しが少しずつ春めいてきた、とお昼を食べながら思った。まだまだ寒いというか、これからひと月が一年で一番冷える季節なのだけれど、空や空気はちゃんと季節の移ろいを教えてくれるんだろうな。
節分は読んで字のごとく季節を分ける日。だから節分を過ぎれば暦の上で冬はおしまい。真冬の陽射しと何が違うのかといえば透明度だと思う。昔、銭湯で風呂上がりに飲むリンゴジュースは透き通ったきれいな飴色をしていた。僕は今じゃ普通になった濾過していない白濁したジュースより、あの澄んだ金色のリンゴジュースが好きだ。
冬の陽は懐かしいリンゴジュースの色。どこかの喫茶店で電灯に使われていた飴色ガラスの色。あの深い飴色がだんだんと色を薄めて明るくなり、眠たげにまどろんでくるのが春の気配。
僕はいつもコーヒーばかり飲んで、緑茶とか紅茶とか烏龍茶とか、いわゆるお茶と呼ばれるものがあまり好きでない。その中で唯一口に合うのがジャスミン茶で、たぶんあの苦みの少なさがいいんだろうと思う。jasmineという名前の響きも、茉莉花と書く漢字も、そして白くて小さな花も美しい。春の陽はジャスミン茶の色に似ている。きらきらと柔らかに眠気を誘うエーテルの色が、枝いっぱいに実をつけたキンカンの実を甘く変えていく。
毎年1月終わり頃からキンカンの実が色づき始める。メジロやヒヨドリがやって来るようになったらもうそろそろ食べ頃の報せ。なんの世話をしなくても毎年これだけの実がつく。
欲張ってひとつ残らず収穫して食べきれないほどのジャムを作り、結局は冷蔵庫の肥やしにしてしまうくらいなら、我が家で必要な分だけ採ったらあとは鳥たちに食べてもらおう。
食べ物の少ないこの時期なのだから、いつも庭へ遊びに来てくれる鳥たちに恩返し、と僕は思う。彼らによく熟れた柑橘の実を提供する代わりに、心の栄養とか万能の鎮静剤みたいなものを貰うのは、僕と猫たちとの間にある持ちつ持たれつ感に似ている。
自然の中で暮らすとか、自然と共存するとか、そんなに大袈裟な看板を掲げないでも、自然は僕たちのすぐ傍に当たり前の顔をして座っていたりする。もちろんこんな田舎の山の麓に暮らしていれば自然は否応なく生活そのものに入り込んでくる。
僕は自然に軒を貸し、自然がそこでひと休みするのを眺めて満足する。自然は時に強引でわがままだけれど、人間と違って自然には理不尽さが微塵もない。自然が僕たちの暮らしを脅かすのは悪意があるからではなく、僕たちが自然を顧みずに身勝手な生活をそこに構築しようとするからじゃないのかな?
季節という自然も、動物や鳥や虫たちという自然も、いつも感心するほど律義で、時に呆れるほど無欲だと僕は思う。野生ではない我が家の猫たちにもそれは共通している。彼らの無欲さや彼らの律義さは、僕の中の欲深さや諦めの悪さを戒めてくれる。
そんなに欲張らず、そんなに焦ることないやんか。と猫たちも鳥たちも言っている。空も山も海も風も太陽も月も星も、きみはそんなに急いでどこへ行くのか? と首を傾げている。
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【筆者】高橋のら
1960年東京生まれ。製本業経営を経て編集プロダクションを設立。
2011年に東京から大分県国東市へ移住し、2014年に国東市から静岡県伊豆半島に転居しました。現在は伊豆の家で編集業を営みながら仕事上のパートナーでもある家内と、国東で出会った6匹の猫たちと共に暮らしています。
国東での猫暮らしを綴った著書「猫にGPSをつけてみた」雷鳥社刊があります。