更新日: 2021年2月9日
【連載エッセイ・第14回】猫と田舎で暮らしてみた~6匹と僕たちの里山生活~
東京生まれ、東京育ち。9年前に奥さんと、大分・国東半島へ移住。
そこで出会った猫たちと、こんどは、自然豊かな伊豆の田舎へ。
ゆっくりと流れる時間のなかで、森や草むらで自由に駆け回る猫たちと、一緒に暮らす日々のあれこれをお伝えしていきます。(毎週火曜日・金曜日に公開)
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田舎のペースで暮らす
ご近所さんの家に足場が組んであった。
朝の散歩で会ったSさんに「外壁の塗り替えですか?」と尋ねたら、数日前の大風で屋根のてっぺんについている棟板金が飛んでしまったための修理だそうで、「雨が降らないうちにやってもらいたいのだけど、足場を組んだきりいつ来てくれるか分からないのよ」と苦笑いしていた。
僕は東京から大分へ移り住んだ当初、こういうことがあるたびにプンスカプンと怒っていた。だから田舎は嫌なんだよ! と呆れて不機嫌になっていた。宅配便の営業所へ荷物を出しに行っても、銀行や郵便局の窓口でも、スーパーのレジでも、とにかくあらゆるところで良く言えばノンビリだが悪く言えばチンタラしている。
車の走り方にしても同じで、都会なら1回の青信号で10台以上は右折できそうな交差点でも、良くて6台、下手すると3台くらいしか曲がれない。田舎では時間がゆっくり流れていると言われるが、それは時間の速度がゆっくりなのではなく、時間の使い方がゆっくりなだけなのだと思い知らされた。
しかしイライラしたって足踏みしたって何も変わりはしない。2か月くらいするとそんなペースにも馴染んできて、あれから9年たった今では憤慨したり呆れることもなく、まあそのうち終わるでしょうと呑気に構えている。
僕が田舎のペースに寛容になったのは慣れたからでもなく諦めたわけでもなく、きっと、自分の置かれた状況に対する愛情の量や満足度の問題なのだと思う。平たく言えばアバタもエクボというやつで、田舎での暮らしがぬるま湯のように心地よくなってくるにつれ、自分自身も時間の使い方が悠長になってきたんだろうな。
そんな暮らしはどこか猫たちの生き様に似ていると僕は思う。我が家の毎日には慌てるとか急ぐなんて言葉や場面はほとんどないが、たまにそんな状況に出くわしたときでも、猫たちは床に転がったまま「まあまあ慌てなさんにゃ」と言っているもんなあ。
卓の上に庭でとれたミカンがのっている。もう10日ぐらいは置きっ放しになっていると思う。
どこかの観光地で売っている温泉饅頭ぐらいの小さなミカン。皮を剥くと中の袋は厚くて噛み切れない時がある。そこそこ甘いんだけれどやけに水っぽくて、いわゆる温州ミカンのくせに種がある。
実が小さい上に袋の皮が厚くて種が多いから食べづらいことこの上ない。だから誰も手をつけることなく10日余りも机の上で時を貪っている。
小さいのは手入れをしないから発育不良なんだろう。しかし種があるのが解せないと思っていたら、なんでも近くに他の柑橘類があると種を作るようになるんだらしい。つまり子孫を残して自然淘汰を勝ち抜くための本能なのだな。
競るという状況。あるいは競る相手との共存。
本来僕たちはそういうものの中で生きているはずだ。競る相手がいなくなった時、競る必要がなくなった時、人はそれを安泰とか隠居とか呼ぶんだろうか?
僕はこういうことを考えるとき東京という街をよく思う。誰かよりも良く、何かよりも高く。東京に限らず都会で暮らすということは多くの競い合いの中で暮らすことのように思う。
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【筆者】高橋のら
1960年東京生まれ。製本業経営を経て編集プロダクションを設立。
2011年に東京から大分県国東市へ移住し、2014年に国東市から静岡県伊豆半島に転居しました。現在は伊豆の家で編集業を営みながら仕事上のパートナーでもある家内と、国東で出会った6匹の猫たちと共に暮らしています。
国東での猫暮らしを綴った著書「猫にGPSをつけてみた」雷鳥社刊があります。