更新日:2020年4月13日
ドイツの歴史 分裂と統一を繰り返して
ヨーロッパの中央に位置し、四方に国境を持つ経済大国ドイツ。諸国との軋轢や分断の歴史を経て、現在はEUの先頭を歩んでいる。
ゲルマン民族と神聖ローマ帝国
ドイツでは紀元前1300年頃から古代文明が栄え、紀元前後にはゲルマン系のさまざまな民族が居住していた。彼らは当時大きな勢力を誇った古代ローマ帝国としばしば戦火を交えたが、4世紀後半に中央アジアの遊牧民・フン族がヨーロッパへ侵入したことにより、勢力図は大きく変化する。
フン族から逃れるために移動してきたゲルマン民族によってローマ帝国の国土は荒らされ、勢力が衰えた帝国は東西に分裂。このうちビザンツ帝国(東ローマ帝国)は東ヨーロッパに勢力を保持したが、西ローマ帝国は衰える一方で、476年に滅亡した。
混乱した西ヨーロッパに統一をもたらしたのは、ゲルマン系のフランク王国だった。カトリックを受容しローマ教会の支持を得たフランク王国は勢力を強め、8世紀後半にはカール大帝が西ヨーロッパをほぼ統一し、ローマ教皇から西ローマ皇帝に任じられた。カール大帝の死後、子孫らによってフランク王国は中、西、東の3つの王国に分割された。これらの王国はそれぞれ現在のイタリア、フランス、ドイツの前身である。
東フランク王国では10世紀初めにカール大帝の家系が断絶し、混乱状態となったが、ザクセン家のハインリヒ1世がこれを収束させ、息子の皇帝オットー1世が962年に神聖ローマ帝国を成立させた。神聖ローマ皇帝はカトリック教会の力を利用してドイツに君臨したが、皇帝と教皇の間で聖職者を任命する権限をめぐって対立する「叙任権闘争」が起きるなど、不安定要因も抱えていた。
度重なる対立によって帝国と教会の結びつきは次第に弱まり、皇帝の権力は弱体化した。12世紀末には有力な地方領主(選帝侯)の選挙によって皇帝を選出する慣習が定められ、1356年にはカール4世が「金印勅書」を発布し、選帝侯に裁判高権などの特権を与え、教皇の介入を排除した。こうして教会の影響は弱まったものの、地方領主の力が強まり、国内は約300の諸侯領や自治都市に分裂する。そのような状況のなかで、15世紀以降はオーストリアの領主ハプスブルク家が帝位を世襲するようになる。ハプスブルク家は政略結婚により領土を拡大、1519年に即位したカール5世は神聖ローマ皇帝やスペイン国王など多くの国の君主を兼任し、フランスやイスラム勢力と戦った。
Karl der Große カール大帝 742〜814
在位800〜814年。キリスト教と結びつき、ヨーロッパ初のひとつの統一体を実現させた。統合が進む今日のヨーロッパの歴史的象徴。
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宗教改革と三十年戦争
16世紀初頭、カトリック教会は贖宥状(免罪符)の販売を行なっていたが、これにマルティン・ルターが反発。1517年、ルターはローマ教皇のレオ10世に『九十五箇条の論題』を提起、贖宥状の販売を攻撃し、これが宗教改革の発端となった。多くの諸侯は教皇による搾取に不満を感じており、聖職者と教会の権威を否定するルターの主張に大衆も賛同、各地で宗教改革が起きた。改革は農村にも波及し、領主に対する農民戦争も勃発する。諸侯らは混乱を避けるため、みずからルター派の教会形成へと改革を進めた。これによりルター派の新教プロテスタントとカトリックの対立は決定的となる。
皇帝カール5世はプロテスタントを容認し、諸侯に領地の宗派の選択権を認めた。しかし、宗派対立は収まらず、1618年には三十年戦争が勃発。フランスやスウェーデンなど外国も介入し、ドイツ国土は荒廃した。戦争の終結後は諸侯に国家主権が認められ、神聖ローマ帝国は事実上の統治権を失った。
各地の諸侯のなかで、ドイツ北東部を拠点とするプロイセン王国が勢力を伸ばし、18世紀にはハプスブルク家のオーストリアとの戦争に勝利して、ヨーロッパの強国の一員となった。しかし、隣国フランスで起きたフランス革命に介入しようとして失敗、フランスで権力を掌握したナポレオンの侵攻を受ける。これにプロイセン、オーストリアなどドイツの諸勢力は大敗を喫し、すでに有名無実となっていた神聖ローマ帝国は滅亡。プロイセンの領土も大幅に削減された。
Martin Luther マルティン・ルター 1483〜1546
ザクセンのアイスレーベンで生まれ、エアフルトの大学で学んだあとに修道院に入る。1512年にヴィッテンベルク大学の神学教授となった。
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ウィーン体制からドイツ帝国へ
ナポレオンによるドイツ支配が始まると、ドイツ人が自覚していなかった民族意識が呼び起こされた。反ナポレオン勢力が結集し、解放への気運が高まる。ドイツ諸連邦はライン同盟から脱退、1813年のライプツィヒの戦いでフランスはプロイセン・ドイツとロシアに破れ、ナポレオンは退位となった。
戦後、発言力を増したオーストリアが戦後処理のためウィーン会議を主宰、国際秩序をフランス革命の前に戻し、大国の勢力均衡を図る復古的なウィーン体制が成立する。1815年に35の君主国とリューベックなど4自由都市、オーストリア、プロセインの一部を含んだドイツ連邦が成立した。
盟主の座は、ハプスブルク家のオーストリアと新興勢力のプロイセンにより争われた。この争いはプロイセンが勝利し、1871年にプロセイン王を頂点とするドイツ帝国が誕生。立役者となったビスマルクが宰相に就任、「アメとムチ政策」で社会主義勢力などの抑圧と労働者の懐柔に努めた。また、強力な指導力のもとで帝国の経済力を上向かせ、政教分離を徹底。軍事増強を行ない、巧みな外交を展開し、「鉄血宰相」と呼ばれた。1888年にヴィルヘルム2世が即位するとビスマルクは退陣、勢力均衡重視の政策から、海外膨張政策に切り替わる。
ワイマール共和国時代
1914年、第一次世界大戦が勃発するとドイツはオーストリアなどと同盟国となり、ロシア、イギリス、フランスの連合国と対立、国民生活を巻き込む長期戦へと突入した。アメリカも介入するようになり、敗戦が避けられなくなると皇帝は亡命。終戦後に君主制は廃止されて、1919年に議会制民主主義によるワイマール共和国が誕生する。巨額の賠償金やインフレなどの問題を抱えていたが、アメリカを賠償問題の味方につけ、国内経済は安定する。「黄金の20年代」と呼ばれる時期を迎え、大衆文化が花開いた。
2つの世界大戦とヒトラー政権
戦後協調外交を展開するようになったドイツは、フランス、ベルギーと不可侵条約を結び、1926年には国際連盟に加盟した。1929年、アメリカに端を発した世界経済恐慌は、豊かな経済力を持たないドイツに深刻な打撃を与えた。社会不安が増大するなか、ヒトラー率いるナチスが急速に台頭する。ナチスはヴェルサイユ条約破棄、ゲルマン民族至上主義、ユダヤ人排斥を唱えた。商人や手工業者などの中間層を中心に広く支持者を集めたヒトラーは、1933年に首相に就任する。短期間で一党独裁制を樹立して軍備増強し、国際連盟を脱退した。
ドイツは1938年にオーストリアを併合し、翌1939年ソ連と独ソ不可侵条約を結んだ。勢いを増したドイツは、同年9月1日にポーランドに侵攻する。イギリス、フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が始まった。デンマーク、ノルウェー、中立国のオランダ、ベルギー、そしてフランスの北半分を占領したドイツは、1941年にソ連に侵攻する。情勢を見守っていたイタリアも参戦した。
アメリカを中心とする連合国軍が1942年に反撃を開始、ソ連はスターリングラードでドイツ軍を撃破し、以後はソ連軍が優勢となる。ドイツ軍は各地で総崩れとなっていった。1945年にはソ連軍とアメリカ軍が東西からドイツに進撃。ベルリン陥落を前にヒトラーは、結婚したばかりの妻エヴァとともにピストル自殺し、5月7日にドイツ軍は無条件降伏してドイツは敗戦した。ヒトラーの死は、世界に衝撃を与えた。
Adolf Hitler アドルフ・ヒトラー 1889〜1945
オーストリア生まれ。ドイツで第一次世界大戦に従軍後、ナチスに加入。1933年にヒトラー内閣を成立させ、一党独裁政権の指導者となった。
ベルリンを分断させた夜
戦後のドイツはアメリカ、イギリス、フランス、ソ連の4カ国に分割支配された。東ドイツを占領したソ連が、アメリカ、イギリス、フランスの占領地区である西ドイツが行なった通貨改革に反発、東ドイツも独自の通貨を導入し、交通を封鎖するなどして対立しドイツは分裂へと向かう。1949年、東にドイツ民主共和国、西にドイツ連邦共和国が誕生した。西ドイツは議会制民主主義、東ドイツは社会主義体制となった。だが一党支配体制の東ドイツから、自由で豊かな西ドイツへの人口流出が深刻化。逃亡防止のため、1961年、東ドイツ領内にある分割占領された都市ベルリンに東ドイツが一夜にしてベルリンの壁を築いた。
ソ連のゴルバチョフによる改革は、東ドイツにも影響を及ぼした。1989年には民主化要求などを求めて国民が各地で抗議行動を起こし、同年11月にベルリンの壁で大量越境が勃発、東西の自由往来が認められるようになった。ここに半世紀に及んだドイツの東西分断は幕切れを迎える。
壁の崩壊から現在、未来へ
ベルリンの壁が崩壊した翌年の1990年、西ドイツが東ドイツを併合するという形で東西ドイツは統一を果たした。統一によりヨーロッパ最大の人口と経済力を持つ国となったドイツは、近隣諸国からの警戒感を払拭するため、欧州統合を推進する。1992年にマーストリヒト条約によりEUが成立、1999年には共通通貨(ユーロ)が導入された。ドイツは2007年に議長国を務めるなど、EUの中心的役割を担っている。ナチス時代という負の過去も、旧交戦国との間で歴史教科書をめぐる対話が進められ、一国としてではなく、地域としての歴史認識の構築を推進している。「過去に起こした過ちを忘れないため」。そんなドイツ国民の気持ちを表すように、ベルリンの街には当時の記憶が数多く残されている。
ベルリンのミューレン通り、ベルナウアー通りには、東西ドイツ分断の象徴である壁の一部が現在も残っている
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- この記事の出展元は「トラベルデイズ ドイツ」です。掲載されているデータは、2015年12月〜2016年3月の取材・調査によるものです。掲載している情報、商品、料理、宿泊料金などに関しては、取材および調査時のもので、実際に旅行される際には変更されている場合があります。 最新の情報は、現地の観光案内所などでご確認ください。
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