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まっぷるマガジン編集部

更新日:2020年4月13日

台湾の歴史を知ろう 権力に翻弄された美麗島

オランダや日本の統治を経て、中華民国へ。中国との間に独立問題を抱え、その関係は微妙なバランスの上に成り立っている。

原住民族が暮らす島

台湾はかつては中国大陸と陸続きで、現在のような形になったのは今から約1万年前といわれる。この時代から台湾にも人類が存在したが、どこから渡来したかはまだわかっていない。彼ら原住民族はオーストロネシア語族に属し、高床式住居で生活していた。 中国の秦漢時代には「東鯤(とうこん)」、三国時代の呉では「夷州(いしゅう)」と呼ばれ、その存在は認識されていた。隋代には、第2代皇帝・煬帝が台湾(当時はおもに流求と呼ばれていた)への派兵も行なっている。中国大陸から漢人が台湾へ移住するようになったのは明代以降のことだ。

オランダ支配から鄭氏政権へ

台湾の歴史が大きく動くのは17世紀のこと。当時はポルトガルやオランダ、スペインがアジア進出を競っていた。最も早く台湾に上陸したのはオランダで、1624年に南部の安平に砦を建設。次いで、北部にはスペインも進出したが、オランダに駆逐され、1642年からはオランダが単独支配するにいたる。オランダは台湾を中継貿易の拠点にするとともに、米や甘藷の栽培も行なった。そのための労働力として、中国大陸から漢人住民を大量に移住させた。 1661年、東南沿岸や台湾海峡一帯で勢力を誇っていた鄭成功は、大水軍を率いて台湾を襲い、翌62年にオランダに勝利。1683年に清朝によって滅ぼされるまで、鄭氏政権が台湾を統治した。鄭氏政権が台湾への移住者を積極的に募集した結果、漢人住民の数は原住民族を凌ぐほどになり、貿易と開拓が推し進められた。

鄭成功チェンチェンコン1624〜1662

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福建省出身の父・鄭芝龍が日本の平戸に住んでいたときに、田川氏の娘と結婚して出生。明の残存勢力として清への抵抗運動を続け、1661年に台湾を征服した。

清朝下でのさらなる漢人の増加

清朝政府は治安維持の目的から、広東から台湾への渡航を禁止したが、新天地を求めて台湾へ密航する人が後を絶たず、この政策はしだいに形骸化。漢人系人口は約8倍にも膨れ上がった。 移住した漢人が土地の開拓を進めるにともない、原住民族との間に争いが多発。政府はその対策のため、居住区を定めて互いに侵犯しないよう定めたり、原住民族の同化政策などを進めた。この理蕃政策は日本統治時代にも引き継がれることとなる。 19世紀中頃になると、西欧列強や日本が中国大陸への進出を画策。台湾は防衛上の要地として認識され、台湾省が設立された。同時に、鉄道や電信などのインフラの拡充も進められた。

 

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1652年にオランダ軍が築いた赤崁楼。鄭成功がオランダを駆逐した際、ここを首府と定めた

皇民化を進めた日本統治時代

日本の台湾進出の足がかりとなったのが1874年の台湾出兵だ。1871年に起きた台湾南部の牡丹社近くに漂着した宮古島島民が原住民のパイワン族に惨殺されるという事件を口実に、日本は台湾へ出兵。これは清と日本との間で両属関係にあった琉球の日本帰属を認めさせる目的があったが、同時に、台湾の占領をにらんでの現地調査の意味合いもあったといわれる。1894年、朝鮮の権益をめぐり、日清戦争が勃発。日本はこれに勝利し、1895年の下関条約により台湾を手に入れることに成功した。 台湾では激しい抗日運動が起こり、台湾民主国の成立が宣言されたが、すぐに日本軍に鎮圧されてしまった。日本は台湾に対し、飴とムチの政策を展開。有力者や協力者には懐柔策をとる一方で、抵抗する者は容赦なく弾圧するという方法で植民地経営を推進した。台湾人による会社の設立や経営は認めず、知識人層が拡大することも抑制。台湾人の不満は募る一方だった。1911年に中国大陸で起こった辛亥革命の影響もあり、台湾でも羅福星事件や西来庵事件など大規模な抗日事件が頻発。1930年には日本人と原住民族合わせて多大な犠牲者を出した霧社事件も発生した。 1937年に日中戦争が勃発すると、台湾は南進基地としてさらに重要度を高めた。そのため、皇民化運動が積極的に行なわれた。日本語を学び、日本名に改名し、神道を信奉することなどが推奨された。

孫文スンウェン1866〜1925

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広東省出身。医学を学びつつ、革命思想に目覚め、清朝打倒を志す。1911年の辛亥革命のあと、中華民国の臨時大総統に就任。台湾では国父と呼ばれている。

蒋介石による独裁政治

1945年に太平洋戦争が終結し、日本がポツダム宣言を受諾すると、台湾は中華民国の一省となり、蒋介石が率いる国民政府軍が上陸。日本人が引き揚げる一方で、大陸から大勢の人々がやって来た。彼らを外省人、もともと台湾に住んでいた人や原住民族を本省人と呼ぶようになる。 戦争直後の台湾はインフレが起こり、街には失業者があふれた。また、外省人の横暴によって治安が乱れ、人々は鬱屈した日々を送っていた。そうした不満が爆発したのが1947年の二二八事件といっていい。これは、本省人の女性がヤミたばこを販売していたのを警官が見つけ、もみ合いになったのを発端に本省人と外省人が激突。最終的には、2万人以上の本省人が虐殺されたといわれるが、犠牲者数には諸説ある。 中国大陸では共産党と国民党の争いが続いていたが、1949年、毛沢東率いる中国共産党が勝利。中華人民共和国が成立した。敗れた国民党の蒋介石は台湾へ敗走し、台北に遷都した。このとき、60万人の軍隊を含む200万人以上が台湾へ移住したといわれる。さらに、約50億ドル分の金・銀貨、外貨、北京の故宮収蔵の文化財も運び込まれた。蒋介石は息子の蒋経国とともに独裁体制を敷き、徹底的な赤狩りを行なった。一方、1950年に勃発した朝鮮戦争により、一時悪化していたアメリカとの関係も改善し、軍事と経済の両面で支援を獲得。奇跡ともいえる経済成長を成し遂げた。

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多くの本省人が犠牲になった二二八事件を記念する碑や記念館などがある二二八和平公園

蒋介石チャンチエシー1887〜1975

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浙江省出身。孫文の信頼を得て国民党の実権を握り、1928年に南京国民政府を樹立。日中戦争後、国共内戦で毛沢東率いる共産党に敗れ、台湾へ。1950年に総統に就任。死ぬまでその地位にあった。

独裁終焉と民選総統の誕生

だが、1970年代になると風向きが変わってくる。米中が接近し始め、1971年には国連から追放される。1979年には米中の国交も正常化した。そのため、台湾は外交的に孤立することになる。蒋介石は1975年に死去し、蒋経国が後を引き継いだ。国内の民主化運動も激しさを増すなかで、1987年、蒋経国は38年間にわたる戒厳令を解除。民間人の大陸への里帰りを認めるなど、民主化へと大きく舵を切った。 1988年に蒋経国が死去すると、本省人の李登輝が総統に就任した。国民党による一党支配は終わり、民主共和制へと移行した。1996年には国民による初めての総統直接選挙が行なわれ、李登輝は圧倒的多数で総統に選出された。2000年には野党の民主進歩党が政権を奪取。2008年には再び国民党が政権を奪い返した。2012年には国民党の馬英九が総統に再選された。 外交的に孤立しているとはいえ、諸外国との経済的結びつきにより、発展を遂げてきた台湾。成熟しつつある経済と社会を抱える一方、中国との間にある独立問題がさらに難しい局面に入っていくことも考えられる。

 

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中正紀念堂は蒋介石を記念して建てられたモニュメント

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奥付:
「トラベルデイズ 台湾」が出展元となる記事に掲載している情報は、2014年10月〜2015年1月の取材・調査によるものです。掲載している情報、商品、料理、宿泊料金などに関しては、取材および調査時のもので、実際に旅行される際には変更されている場合があります。最新の情報は、現地の観光案内所などでご確認ください。

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。