更新日:2020年4月13日
イタリアの美術と建築 高度な文明と芸術性の賜物
ギリシャの影響を受けながら独自の芸術を開花させた古代から、人類史上最も芸術が盛期を迎えたともいえるルネサンス。そして、進化を続ける現代まで。
古代ローマの美術と建築 Ancient Roman Art & Architecture —— 紀元前3世紀〜3世紀
高度なギリシャの建築技術に範をとりつつ、独自の特徴が見られる古代ローマ建築。都市の発展とともに公共機関が整備され、装飾にもこだわりをみせる。
古代ギリシャからローマへ
古代ローマ人たちにとって、すべてのお手本となったのは、すでに高度な都市文明を築いていたギリシャだった。とくに南イタリアは、マーニャ・グレチャ(大ギリシャ)と呼ばれ、ギリシャ都市国家の植民都市として発展した街も多く、たとえばシチリア州シラクーサなどには、今でもギリシャ時代の建築物が残る。共和国として大国化していくなか、ギリシャ文化を積極的に取り入れた一方で、建築部門はまさにローマの文化を象徴するものであったといえる。ギリシャと大きく異なっているのはアーチの使用。長方形を基礎としたギリシャ建築に対し、ローマの建築では、円形を用いるようになるが、これはローマ人が征服したエトルリア人がもともと持っていた技術だった。アーチと同様、ヴォールト(穹窿)やクーポラ(円蓋)を実現し、ローマのパンテオンは、当時の建築技術の結晶であり、コンクリートを使っているのもローマ建築の特徴。また、ローマは征服した街を次々と「都市化」した。ローマ自身も同様で、市内には神殿に限らず、フォロ(フォロ・ロマーノほか)、公共浴場(カラカラ浴場ほか)、市場(トラヤヌスの市場ほか)など、次々に公共施設が建てられた。とくに帝政移行後は歴代の皇帝が公共機関を整備するのが伝統となった。円形闘技場、コロッセオもそのひとつ。また、属州各地へと延びる道路を整備し(アッピア旧街道ほか)、アーチの工法を生かして水道橋を造り、ローマの街を水で満たした。市内に現在でもいくつもの噴水があるのは、かつての水道政策の名残といえる。
皇帝たちの美術、建築
彫刻も当初は、皇帝や貴族たちが自宅や庭園を飾るためにギリシャから数多く輸入されたほか、たくさんのレプリカが作られた。ローマの彫刻が独自のスタイルを確立するのはちょうど、ローマが共和政から帝政へと移行した時期に重なる。初代皇帝となったアウグストゥスは、みずからの若く美しい青年の姿の彫像を大量に作らせ、帝国中に送った。皇帝のイメージを帝国のすみずみにまで行き渡らせる一種のプロパガンダだったと考えられる。また、アウグストゥス自身の墓標であるアラ・パキスには、葬送行列の様子を浮き彫りにし、そのなかで幼い後継者たちの正当性を強調した。時代は下るが、コンスタンティヌス大帝の巨像(4世紀、ローマ、カピトリーニ美術館)も、皇帝を神格化した記念碑的彫像のひとつだ。この時代、絵画はそれ自体で現存するものは少なく、『リヴィアの家の庭園の景色』(前20年頃、ローマ、マッシモ宮やポンペイの遺跡群など、邸宅の壁を飾っていたフレスコ画がほとんど。いずれも人物や動植物が写実的に、一種の遠近感も意識して描かれていた。また、さまざまな色の大理石を数ミリ四方に切って並べるモザイクの手法は古くより存在したが、邸宅や公共機関の床に用いられローマ時代に大きく発展した。ナポリ国立博物館が所蔵する『イシスの戦い』は、アレクサンダー大王の肖像でおなじみ。カラカラ浴場のほか、ローマのマッシモ宮にも舗床モザイクの例が多く残る。ローマ郊外、ティヴォリのハドリアヌス帝の別荘は、皇帝みずから設計したといわれる。
パンテオン
紀元前25世紀に建造されたパンテオンは、初代ローマ皇帝アウグストゥスの側近、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパの設計。
関連リンク
中世前期:初期キリスト教、ビザンチン美術 Middle Ages:Early Christian & Byzantine Art —— 3〜10世紀
キリスト教が公認され、教会が次々に建設される。ローマ以外の周辺地域でもモザイク画や豪華な装飾の彫刻など特徴的な美術が生み出される。
キリスト教の普及
初めは異教として迫害されたキリスト教徒たちは、隠れた部屋で集会を行なっていたが、墓地にそれとわかる記号や簡単な絵を入れた。ギリシャ語で「魚」を表す単語が「救世主キリスト」の略と同じであるため、魚の絵が好んで使われたほか、サン・カッリストのカタコンベをはじめ、ローマにいくつか残るカタコンベでは、キリストを表す「よき羊飼い」など、聖書のモチーフを見ることができる。やがてキリスト教が公認されると、火葬でなく土葬が普及し、彫刻で飾られた石棺が作られた。ユニウス・バッススの石棺(ヴァチカン、サン・ピエトロ大聖堂の宝物館)は、ほぼ丸彫りで聖書の10の場面を描いた傑作だ。313年、コンスタンティヌス大帝はキリスト教を公認すると、首都ローマ、聖地エルサレムとベツレヘムに聖堂建築を命じた。ローマに最初に建てられたのはローマ司教座教会としての現サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂。度重なる改築が行なわれているものの、長方形の縦長の空間の両側に2列の廊下を持つ「五廊式」、東端に半円形のアプシス(後陣)を持つプランは、当時の聖堂の典型的な様式。同時期にサン・ピエトロ大聖堂が建てられたが、こちらは16世紀に完全に改築された。聖堂のタイプは平面プランでおもに2つに分けられる。もともとローマ市民の集会場であったバジリカを踏襲したのが「バジリカ型」で、長方形の広い空間を特徴とし、ローマでは前述のサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂や、サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂が代表的な例。もうひとつは、円や正十字、または正八角形など、「集中型」と呼ばれるもので、古来の霊廟に由来する形であり、おもに巡礼型の聖堂の建設に好んで用いられた。この例としては、円形のプランを持つローマのサンタ・コスタンツァの霊廟など。
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂
代表的な「バジリカ型」の大聖堂は5世紀の創建。度重なる修復と増築でさまざまな時代の建築様式が見られるのも面白い。
ビザンチン美術と蛮族の影響
456年の皇帝廃位のあと、実質消滅した西ローマ帝国と逆に、東ローマ帝国はコスタンティノープル(現イスタンブール)を首都に15世紀まで存続する。6世紀に入ると、ユスティニアヌス大帝はかつてのローマ帝国復活をめざし北イタリアを平定、ラヴェンナを北イタリアの都とし総督を置いた。同地のサン・ヴィターレ聖堂はこの地方の司教座教会として建てられたもので、ユスティニアヌスおよび皇妃の肖像がそれぞれ従者たちとともにモザイクで描かれている。色ガラスや、金箔を入れたガラスを使い、壁や天井、クーポラをモザイクで飾るようになったのがこの時代の特徴のひとつ。東ローマ、すなわちビザンチン帝国で好まれ普及した。ラヴェンナのユスティニアヌスの肖像モザイクにもはっきりとその特徴が表れているとおり、この頃になると、絵画のなかから遠近感、立体感が消える。彫刻も同様で、ローマ時代の写実的、立体的表現が姿を消し、平面的でシンプルなモチーフが主流になる。これは価値観の変化によるもので、いかにリアルに見せるかが重要ではなくなったことを示している。また、ユスティニアヌス没後、東ローマ帝国の支配が弱まると、ロンゴバルド族がアルプスを越えてイタリア半島へ侵入。パヴィアなど、北イタリアから中部にかけていくつかの公国を建てた。この時期から数世紀にわたり、石棺も教会内部の装飾彫刻も、平面的な浮き彫りが主流となる。組紐模様や幾何学模様、また形式化した動物の文様など、ロンゴバルドやゲルマン民族など騎馬民族の貴金属装飾品のモチーフの影響が大きい。ブレーシャのサンタ・ジュリア聖堂(現在は博物館)は、9世紀、カロリング朝に入って間もない頃の建造だが、ロンゴバルド時代の名残を強く残している。
ユスティニアヌス大帝のモザイク
ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂内にあるモザイク画。東ローマ帝国時代に好まれていた豪華な装飾の特徴を見てとれる。ユスティニアヌス大帝は「ローマ法大全」を編纂させたことでも知られる。
中世中・後期:ロマネスク、ゴシック Middle Ages:Romanesque, Gothic —— 11〜14世紀
コムーネの成立によって、各都市が競うように聖堂や政治的施設を建設する。絵画は温かみのある表現がされるようになり、ルネサンスの開花へとつながっていく。
「ローマ」回帰のロマネスク
11世紀に入ると、世紀末思想からの解放、農耕具の改良などによる農業効率の向上、疫病の鎮静化などにより、ヨーロッパ全体が新しい活気にあふれるようになる。イタリアでは、北部から中部にかけて都市国家が発達し、それぞれの都市が競うように新しい聖堂を建造した。「ロマネスク」は「ローマ風」の意味。建築家たちは、ローマ時代の建造物を研究し、壁が厚く開口部の小さい、堅固で頑丈な建物を建てた。特筆すべきは装飾的彫刻。教会はルネッタ(アーチ建築の天井下の半円形壁面)、側柱や柱頭などに、物語や寓意、シンボルや空想上の動物などが彫られ自由に飾られるようになる。とくに、エミリア・ロマーニャ州のモデナの大聖堂は、ファサードを飾る『天地創造』などの彫刻装飾で知られるほか、隣町パルマの洗礼堂の、「12カ月の労働」の寓意の彫刻も面白い。この時期の絵画は、小さな町や村の礼拝堂などに現存するフレスコ画などに限られる。プリミティブな画法だが、鮮やかな色やのびのびとした色使いが印象的だ。イタリア・ロマネスクを代表する建築としては、ピサのドゥオモや洗礼堂のほか、フィレンツェのサン・ジョヴァンニ洗礼堂や、サン・ミニアート・アル・モンテ教会が挙げられる。ミラノのサンタンブロージョ聖堂も典型的なロンバルディア・ロマネスク様式だが、主祭壇に置かれる「黄金祭壇」とその上を飾る「祭壇天蓋」は9世紀のもの。一方、ローマのサン・クレメンテ教会は、後陣のモザイクと、地下のフレスコ画に11世紀の姿をとどめている。パレルモの王室礼拝堂、モンレアーレ大聖堂もモザイクの聖堂として有名。また、「コムーネ」と呼ばれる各都市国家は、フィレンツェのヴェッキオ宮の例に見られるように、それぞれ街の中心地に行政府を兼ねた議会場を建てた。
サンタンブロージョ聖堂
ミラノ最古の教会の創建は4世紀。現在の建物は再建されたもので、ロンバルディア・ロマネスク様式の特徴が随所に見られる。
北方から来た「ゴシック」
多くの尖塔アーチを持ち、リヴ・ヴォールトで支えられた高い天井、壁に広くとったステンドグラスの窓から明るい光が差し込む――12世紀中盤、フランスで誕生した、まったく新しいスタイルの聖堂は、イタリアではそれほど普及しなかった。「ゴシック」はそもそも、「ゴート族の」という意味。イタリアで最もゴシックらしい建造物はミラノのドゥオモだが、その形から「座りこんだゴシック」と呼ばれている。イタリアのゴシック建築を代表するシエナの大聖堂は、ファサードには尖塔アーチなども見られるが、上昇する力は抑えられ、外観はむしろ白と黒の交互に積まれた大理石が横のラインを強調している。ここにあるニコラ・ピサーノによる説教壇は、同彫刻家がピサの洗礼堂用に造ったものの応用で、説教壇そのものを正方形から正六角形に変え、円柱と装飾的なアーチの上に載せることで、それ自体を小さな建築物のように仕上げている。息子ジョヴァンニもそれを発展させた形でピサのドゥオモの説教壇などを造った。絵画では、チマブーエとドゥッチョが、これまで神々しく手の届かない存在だった聖母子像を、自然で温かみのある表情と色合いで表現した。ウッフィッツィ美術館では両者の祭壇画を比較して見ることができる。一方、アッシジの聖フランチェスコ聖堂において、建築的な要素をバックに描き込み、斬新なスタイルを見せたのがジョット。正確な遠近法からはまだ遠いものの、建築物を使って画面の中で奥行を表現した。フィレンツェのサンタ・クローチェ教会に続き、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂が彼の仕事の集大成となった。シエナ市庁舎内にある、アンブロージョ・ロレンツェッティの『良い政府の寓意、悪い政府の寓意』は、当時の「政府」の定義を示していて、絵画的価値以上に興味深い。
サンタ・クローチェ教会
ネオ・ゴシック様式のファサードを持つ教会。90年もの長い歳月をかけて建造された。このあと、イタリアで活躍する多くの偉人たちを埋葬することになる。
初期・盛期ルネサンス Modern:Renaissance —— 15〜16世紀前半
フィレンツェのドゥオモのクーポラ建設をきっかけに開花したルネサンス。天才的な巨匠たちによって建築、絵画、彫刻、あらゆる芸術ジャンルが飛躍的に発展。
花開くフィレンツェの文化
1418年、フィレンツェで、ブルネレスキがギベルティをコンクールで破り、誰をも驚かせる、ドゥオモの巨大なクーポラを建造。ゴシック建築の経験と、古代ローマの建築の研究との見事な融合だった。「再生」を意味するルネサンスの潮流は、古代ギリシャ、ローマの文化を再評価する動きを示し、文学、哲学など人文分野から美術、建築まで広い範囲にわたった。ブルネレスキの死後、活躍したのはレオン・バッティスタ・アルベルティ。『建築論』などの理論書を著したほか、フィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ教会などを設計した。『ダヴィデ』(フィレンツェ、国立バルジェッロ美術館)の彫刻家ドナテッロは、パドヴァに招聘され、ヴェネツィアに初期ルネサンスを伝えた。また、デッラ・ロッビア一族はテラコッタを使った技法による彫刻を制作し、フィレンツェの教会や邸宅の多くをテラコッタ芸術で飾った。絵画では、修道士フラ・アンジェリコ、フィリッポ・リッピらが、優雅で華やかな祭壇画を描いた。リッピの弟子であったボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』『春』(いずれもウッフィッツィ美術館)は、キリスト教を離れ神話の世界を描いた、ルネサンスを象徴する作品といえる。真のルネサンス絵画の幕開けといえるのが、マザッチョの『三位一体』(サンタ・マリア・ノヴェッラ教会)。見る者の高さに合わせた正確な仰角視遠近法を示した作品だ。サンタ・マリア・デル・カルミネ教会のブランカッチ礼拝堂では、15世紀当時の背景の中に聖人伝説を描いたが、その流れをくむのがピエロ・デッラ・フランチェスカ。アレッツォのサン・フランチェスコ教会にある「聖十字架伝説」や、ミラノのブレラ美術館の『ブレラの祭壇画』がある。また、マンテーニャは北イタリアを中心に活躍、マントヴァのドゥカーレ宮殿の「婚礼の間」では、天井の天使が上から覗くような騙し絵が見事。
サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
アルベルティが手がけた幾何学模様の装飾がされたファサードが最大の特徴。
巨匠の時代、盛期ルネサンス
新しい時代は、新しい才能を開花させた。レオナルド・ダ・ヴィンチの師匠として知られるヴェロッキオは、若い弟子の高い能力に完敗を悟り、以後、絵筆を持たなかったとされる。ダ・ヴィンチが、『東方三博士の礼拝』(ウッフィッツィ美術館)の下絵を残したままミラノに移動したのは軍事技術者としてミラノに採用されたためだった。だが、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の『最後の晩餐』 については、彼の探究心が災いした。フレスコ画にテンペラ画の手法を交ぜて描いたため、剥離が激しく、完成直後より保存、修復に悩まされた。ミケランジェロは、絵画、彫刻、建築と当時の三大芸術といわれるすべての部門で活躍した。代表作品はそれぞれ、絵画ではシスティーナ礼拝堂の天井画『天地創造』と壁画『最後の審判』。彫刻はサン・ピエトロ大聖堂の『ピエタ』。建築では、ローマのカンピドーリオ広場、およびサン・ピエトロ大聖堂のクーポラ。また、ミラノのスフォルツェスコ城博物館の『ロンダニーニのピエタ』は、彼の最後の作品で、未完のままだ。37歳で夭逝したラファエロは、ウンブリア出身で、当時国際的に活躍していたペルジーノのもとで修業をしたあと独立。多くの聖母子像や祭壇画で師匠を超える人気を得た。師の影響が色濃い『聖母の結婚』(ミラノ、ブレラ美術館)から、ヴァチカン美術館内『アテネの学堂』まで、急成長ぶりがよく見てとれる。一方ヴェネツィアでは、15世紀に入ってからもドゥカーレ宮殿をはじめ「国際ゴシック」と呼ばれる華やかで装飾的な建築が好まれ、ほかの都市に比べてルネサンス建築の導入が遅れた。絵画部門では、商業面で結びつきの強かったフランドル地方の画家の影響を強く受け、15世紀終盤からベッリーニ親子やカルパッチョが活躍。彗星のごとく現れたジョルジョーネは夭逝し、あとをティツィアーノが引き継いだ。
『聖母の結婚』
遠近法を用いて描かれたラファエロの作品(ブレラ美術館)。
近代の終わりから現代まで Contemporary —— 16世紀〜現代
ルネサンスに続いて登場した、技巧的なマニエリスム、ダイナミックなバロック。19世紀以降は奇想天外な表現などが生み出され、現在も新たな才能が芽を出している。
マニエリスムからバロックへ
1527年のローマ却掠後に移住してきた建築家・彫刻家サンソヴィーノらの影響で、16世紀に入るとヴェネツィアでもようやくルネサンス様式の建造物が建てられるようになった。マルチャーナ図書館などがその代表例だ。また、近郊のパドヴァ出身のパッラーディオも、ヴェネツィアのレデントーレ教会など古典的なオーダーや破風を使った聖堂を設計した。絵画では、パオロ・ヴェロネーゼが『ヴェネツィアの勝利』(ドゥカーレ宮殿)など建築的な要素を使った遠近法や、華やかで祝祭的な雰囲気で人気を得る一方、ヤコポ・ティントレットは、『聖マルコの奴隷の奇跡』(アカデミア美術館)など、大胆な短縮法、劇的なポーズと光の効果で独自のスタイルを提示した。フィレンツェでは、ロッソ・フィオレンティーノの『聖母子と聖人たち』(ウッフィッツィ美術館)をはじめ、ポントルモ、パルミジャニーノなどの不自然に長く伸びてねじれた人の体や、補色を多用するスタイルが主流になる。ミケランジェロやラファエロにより完成をみた絵画において、画家たちは自然を直接観察するのではなく、巨匠たちの作品の研究に関心を移した。マニエリスムと呼ばれるこの様式は、新大陸発見後、新しい世界秩序のなかで覇権を失ったイタリア諸国の政治的不安の表れでもあった。『エレオナーラ・トレドと息子の肖像』(ウッフィッツィ美術館)など、写真のように精密な肖像画を描いたブロンツィーノはむしろ異質といえる。16世紀末、カラヴァッジョが彗星のごとく登場し、『聖マタイの召命』(サン・ルイジ・デイ・フランチェージ教会)で最初の名声を得た。庶民的な服装、劇的なジェスチャーと配置や、スポットライトを浴びたかのような明暗の強い、効果的な光の使い方で人気を得たが、彼自身は貧しくいかがわしい人々の間で、粗野で横暴に振る舞い、殺人まで犯して逃亡生活を送った。彼の作品は、自由奔放な画家自身の生活と悔悛を表しているようだ。
レデントーレ教会
ルネサンス最後の建築家・パッラーディオが設計した。
バロックから近・現代へ
マニエリスムはやがて、「ゆがんだ、いびつな」を意味するバロックへと発展する。絵画では、ローマにおいてピエトロ・ダ・コルトーナ、アンニーバレ・カッラッチらが活躍するが、バロックの特徴がより強く見いだせるのは彫刻、建築部門。とくにナヴォーナ広場の噴水などを制作したベルニーニの『聖テレーザの法悦』(サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会)は秀逸。バロック建築の特徴は、楕円型や動きのある曲線の多用で、サン・ピエトロ広場の列柱廊や、ボッロミーニによるサン・カルロ・アッレ・クアットロ・フォンターネ教会などが挙げられる。17世紀、軽やかな色彩とタッチで天井画を描いたジャンバッティスタ・ティエポロは、事実上、国際舞台で活躍した、現在までで最後のイタリア人芸術家。一方、彫刻家カノーヴァはナポレオンにも重用され活躍した。『パオリーナ・ボルゲーゼ』(ボルゲーゼ美術館)は、新古典主義を代表する傑作。また、ハイエスの『口づけ』(ブレラ美術館)は、中世や史実を題材にしたイタリア・ロマン主義の作品の筆頭に挙げられる。19世紀中盤になると、イタリアの芸術家たちは貧しい農民や町民の生活に目を向けるようになる。ジュゼッペ・ペッリッツァ・ダ・ヴォルペドの『第四身分』(ミラノ、20世紀博物館)のほか、フィレンツェではマッキャイオーリと名乗り、点描を研究する画家たちが現れた。20世紀初頭には、現代工業化社会が題材となる。車や列車、光の動きを、アニメーションのように分解し、ボッチョーニは『空間における連続性の唯一の形態』(ニューヨーク、MoMA)で歩く人の動きを彫刻で表現した。戦後では、キャンバスにカッターで切れ目を入れた『空間概念』のルーチョ・フォンターナ(国立近代美術館)や、日本の伝統的建築の基礎を積極的に取り入れた、建築家カルロ・スカルパなどがいる。
『アポロとダフネ』
躍動感としなやかな肉体を表現する、ベルニーニの傑作のひとつ(ボルゲーゼ美術館)。
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- 奥付:
- この記事の出展元は「トラベルデイズ イタリア」です。掲載している情報は、2014年10月〜2015年1月の取材・調査によるものです。掲載している情報、商品、料理、宿泊料金などに関しては、取材および調査時のもので、実際に旅行される際には変更されている場合があります。最新の情報は、現地の観光案内所などでご確認ください。
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