永遠の都イタリアローマ観光で外せないスポット7選
イタリアのローマは「永遠の都」と表現される美しい街。世界中の観光客が訪れるローマは街の至る所に古代ローマ時代から様々な年代の史跡が残されています。初めてローマを訪れる方はどこから訪ねるべきか迷ってしま...
更新日:2020年4月13日
狼に育てられた王が建てたとされる、栄光のローマ帝国の中心地。今も首都として発展を続け、世界から注目される「永遠の都」。
ローマの歴史は伝説から始まる。紀元前753年4月21日、ギリシャ神話の英雄の子孫である双子の兄弟ロムルスとレムスのうち兄・ロムルスによってパラティーノの丘にローマが建国された。ローマの名もロムルスに由来するという。しかし、当時はまだ文字がなかったとされ、それが口承による伝説といわれるゆえんだ。考古学的にはこの地に人々が居住したのはもっと早く、紀元前8世紀頃の鉄器時代の遺跡がパラティーノの丘で発見されている。伝説の王ロムルスを初代に、王政ローマが誕生した当時、この地は湿地帯で、数千人の人々が2つの丘に分かれて住む小さな村であったといわれる。やがて都市国家としての整備が進み、パラティーノの丘とカンピドーリオの丘の間に排水路が造られた。湿地帯であった地を乾燥させて政治・経済の中心である公共施設フォノ・ロマーノや、カンピドーリオの丘にはユピテル神殿が建てられた。王政ローマは世襲ではなく、エトルリア人の王によって支配されるようになったことからローマ市民が反発し、7代目の王を最後に共和政に移行する。
ロムルスがローマを建国したとされるパラティーノの丘
紀元前509年、共和政ローマが誕生。王政への反省から、王政時代からあった元老院に加えて、政務官、民会の三者による共和体制を強化した。その勢力は拡大し、紀元前272年にはイタリア半島を統一。西地中海の覇権をめぐってカルタゴと100年の間戦って、シチリアをはじめマケドニアを属州にするなど地中海周辺の覇権を握った。首都としてのローマは、人口の増大に対応して「ローマ七丘」といわれる7つの丘の下まで民家が広がり、道路の整備も進んだ。ローマ街道の敷設やローマ水道の建設が始まったのもこの頃だった。 約500年続いた共和政ローマは、度重なる外征で内政が混乱し、内乱を制したカエサルも暗殺される。カエサルの遺言で指名されたオクタヴィアヌスがアウグストゥス(皇帝)の称号を得て皇帝に即位。これよりローマは共和政から帝政に移行する。
古代ローマの繁栄を物語る、フォロ・ロマーノの遺跡群
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「ローマ七丘」のひとつ、クイリナーレの丘。共和政期、帝政期に住宅地として発展したと考えられている
帝国という呼び方を広義に「複数の文化や民族を統治する支配体制」とするなら、共和政ローマがシチリアを属州としたときがローマ帝国の誕生となるが、狭義に「皇帝を元首とする支配体制」とするならアウグストゥスが初代皇帝に即位した紀元前27年がローマ帝国の始まりといえる。アウグストゥスが採用したのは、共和政時代の伝統を生かして、みずからは元老院の第一人者でありつつ元老院における議会制度を尊重するという体制であった。のちに続く皇帝もおおむねこの体制を遵守した。ローマは、アウグストゥスの時代にはすでに人口100万人に達する、当時世界最大の都市であり、都市開発が進んでいた。しかし、皇帝ネロ統治下の64年に市街の3分の1を焼失する大火災が発生。これを機にネロは乱雑に発展したローマの区画整理を行ない、ローマは整然とした街並を手にした。続くウェスパシアヌス帝も火災復興事業を推進し、5万人収容の大競技場コロッセオを完成させた。ローマの繁栄は、ディオクレティアヌス帝がニコメディアに遷都するまで続いた。
375年、ゲルマン民族の大移動が始まり、ローマ帝国は領土を脅かされ、395年、東西に分裂する。ローマは西ローマ帝国に属したが、西ローマ帝国は首都をラヴェンナに置いたため、ローマの政治的重要性は低下した。その西ローマ帝国も、476年にゲルマン人の傭兵隊長オドアケルの支配によって滅亡する。その後のローマは、オドアケルに次いで東ゴート王国、東ローマ帝国、フランク王国、神聖ローマ帝国、ナポレオンと支配者が次々と代わった。政治的求心力は衰えていたが、ローマ帝国の遺産を継ぐ街として、また、ローマ教皇庁を擁する街として、文化都市の栄光は保ち続けていたといえる。
15世紀半ば以降、ローマは教皇領の首都となり、同時にルネサンス文化の中心のひとつとなった。フィレンツェで花開いたルネサンスだったが、パトロンだったメディチ家が衰退するとともに芸術家たちがフィレンツェからローマへと移り住んだためだ。教皇ニコラウス5世は「ルネサンス教皇」とも称され、フラ・アンジェリコを招きヴァチカン宮殿内を装飾させた。ユリウス2世に雇われて数々の名画を残したラファエロ、パウロ3世の依頼でシスティーナ礼拝堂の壁画『最後の審判』を描いたミケランジェロ、サン・ピエトロ大聖堂の設計やヴァチカン宮殿の拡張工事に呼ばれたブラマンテなど枚挙にいとまがない。16世紀末の教皇シクストゥス5世は、城壁の改修、宮殿の建設、教会の修復を盛んに行ない、サン・ピエトロ大聖堂のドーム屋根もこの頃完成した。17世紀にはイタリアでバロック芸術が開花。16世紀のプロテスタントによる宗教改革を受けて、カトリック教会が立て直しを図った対抗宗教改革の成果といわれる。カラヴァッジョに始まる絵画、ベルニーニによる彫刻・建築、ニコラ・サルヴィによるトレヴィの泉などの建造物がこの時代のローマを彩った。
新たなローマの中心的存在となり、華やかな文化を生み出していったカトリックの総本山・ヴァチカン
1805年、フランス皇帝ナポレオンはイタリア王の称号を得て、翌1806年には神聖ローマ帝国を崩壊に追い込んだ。しかし、1814年にナポレオンは皇帝の座を退位。イタリアの君主の座はしばらく空位となり、ローマは再び教皇領となった。1861年、サルデーニャ王であったサヴォイア家のヴィットリオ・エマヌエーレ2世のもとイタリアの大部分が統一され、イタリア王国が成立。教皇領の首都であったローマは1870年に、教皇領は1871年にイタリア王国に併合され、ローマが王国の首都となった。その後イタリア王国の指導者になったのはファシスト党の党首ムッソリーニで、ローマ教皇庁は1929年にムッソリーニとラテラーノ条約を結び、教皇領を放棄する代わりにヴァチカン市国として独立した。ムッソリーニは、ローマ郊外にローマ万国博覧会のための新都市、EUR(エウル)の建設を始めたが、ドイツ・イタリア・日本を枢軸国とした第二次世界大戦の開戦により、EURの建設は中止となる。各戦線で敗戦を重ねていたイタリアでは、ムッソリーニが失脚、1945年、新政府は無条件降伏をした。
敗戦後の1946年6月、共和制への移行を問う国民投票が行なわれ、イタリア共和国が誕生。現在、ローマはイタリア共和国の首都、ラツィオ州の州都、ローマ県の県都として政治・経済・文化の中心的存在となっている。また、EU(欧州連合)の主要都市であり、カトリック教会の中心地として、国内を代表する企業の本社、国際機関や多国籍企業の本拠地が集まり、発展を続けている。
イタリア統一の偉業を讃えた、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂。ネオ・クラシック様式の建造物
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