平成の大合併で村ごと越県合併した唯一の村 ~山口村の場合~
「木曽路はすべて山の中である」で有名な島崎藤村の「夜明け前」で知られる馬籠宿(まごめじゅく)。中山道を東京から進み、木曽路十一宿場の最後の宿場が馬籠宿です。
現在の馬籠宿は木曽路十一宿の中で唯一岐阜県にあります。しかし、以前は長野県の一部であり、平成の大合併によって馬籠宿のあった村が岐阜県中津川市と合併。その結果、長野県から岐阜県へと移りました。この馬籠宿のあった村が全国で唯一の越県合併をした山口村です。
昭和の大合併で村が分断!
越県合併だけでなく、注目されたのは山口村のある地域では過去にも越県合併によって大きく揺れたためです。
それは昭和28年から昭和36年までに市町村数はほぼ3分の1になった昭和の大合併といわれる時で当時は長野県神坂村が今回と同じく岐阜県中津川市と越県合併すべく進めていましたが、神坂村において賛成・反対に意見が真っ二つに分かれ、自治庁の調停の末、神坂村の峠、馬籠、荒町地区が長野県山口村に、残りの地域が岐阜県中津川市に編入し、神坂村は閉村しました。
平成の大合併で再び!
時は平成になり、今度は長野県に残った神坂村の3地区を含む山口村が平成の大合併により、同じく岐阜県中津川市との越県合併を進めることになります。
地図を見ると交通・経済などは中津川市との方が近く、当時以上に繋がりは強くなったであろうことは想像に難くなく、ついに中津川市との越県合併が成立。馬籠宿を含む旧神坂村の地域は全て岐阜県になりました。
南北に分割して合併した村 ~上九一色村(かみくいしきむら)の場合~
山口村では昭和と平成の大合併を経て越県合併という形を採りましたが、地理的条件などからあっさり分村して合併した村があります。
山梨県の上九一色村です。上九一色村は甲府市の南部に位置し、甲府を中心とした峡中と富士五湖を中心とした富士北麓地域に跨いだ地域にありました。
南北地域の繋がりは強かった!
村名の由来は武田時代の郷が木工業を生業としていたため「工一色」と呼ばれ、それらが9つの村から成り立っていたため「九一色」と呼ばれたとされています。
上九一色村を南北につなぐ中道往還は戦国時代、武田氏によって関所が置かれ、駿河(静岡県)に対する警備に九一色衆といわれる武士団が置かれていたといわれ、軍事道路としての役割を果たしていました。また、戦国時代から江戸時代にかけては商人によって煙草や茶、魚介類・塩が行きかう重要な道でした。
このように戦国時代から江戸時代にかけて中道往還を通じて南北の繋がりは非常に強かったといえます。
トンネルを挟んで南北で生活圏が変わる?
江戸時代までは富士北麓地域の生活圏は甲府を中心とした峡中であったと考えられます。
しかし、鉄道や高速道路の開通により、精進湖トンネルを挟んで北部地域は甲府へ、南部地域は精進湖や本栖湖へは富士吉田方面へ容易にアクセスすることが可能となり、富士五湖という形での観光業の発展なども加わり、峠を越えて甲府へ行く必要性も薄まってきました。
必然だった!分村合併
このように昔は中道往還により強い結びつきが強かった南北地域が、交通網の発展などにより行政と生活の圏域が全く異なるという特殊性を持った行政となってしまい、合併を機に村を2つに分けても問題がなかったようです。
確かに精進湖や本栖湖といえば「富士五湖」のある地域をイメージして甲府というイメージはありません。そういう意味では必然だった分村合併だったのではないでしょうか。
3つの村について紹介しました。
歴史を紐解くと当時の経済的な事情だったり、文化的な繋がりだったり様々な理由が背景には存在することがわかります。それぞれの地域を地図チェックしてみてはいかがでしょうか。
参考資料:総務省 和歌山県観光振興課 甲府市 北山村 上北山村 下北山村 中津川市山口総合事務所 甲府市・中道町・上九一色村合併協議会
県別マップル 山梨県 道路地図
県別マップル 長野県 道路地図
県別マップル 和歌山県 道路地図
※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。
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