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『蜻蛉日記』上巻あらすじ②:長男「道綱」の出産と藤原兼家への疑い

それでも、兼家は次々と歌を贈ってきましたが、作者は妹に返事を書かせたりしたので、「自分の字で返事が貰えないのを恨みます」「もう手紙を出さないでおこうと思っても、どうしても一方の自分ががまんできない」など、兼家の熱烈な求愛が続きます。そして、「いかなる朝にかありけむ」秋に二人は結ばれました。

兼家を初めて受け入れた後朝(さねざぬ)の兼家の歌への返歌は、

「思ふことおほゐの川の夕ぐれはこころにもあらずなかれこそすれ」(作者)

現代訳:あなたがおいでくださるかどうかと、もの思いの多い夕暮れには、ただもう不安でわれ知らず泣けてきます。

彼女の父倫寧が陸奥の守として赴任する事になったとき、「通ってきはじめて間もない兼家は、まだ信頼していいかどうか不安なので、父親との別れは何とも心細かった」と書いています。

父も涙のなかで、兼家に対して、
「君をのみ頼むたびなる心には行く末遠く思はゆるかな」
あなた(兼家)だけが頼りです。どうか娘をよろしくお願いします、という歌を残します。

兼家は
「われをのみ頼むと言へばゆく末の松の契りも来てこそは見め」
私に任してくれと歌を贈りました。

そのうちに作者の身体に変化が起こり、春と夏を悩みぬいてやっと八月の末に、安産で道綱を生みました(天暦9年955)。お産の間、兼家は忠実に夫の本分を尽くしてくれました。

ところが、九月になって兼家がうちを出たあとに彼の箱をあけると、他所の女へ送る手紙がありました。

「疑はしほかに渡せる文みればここや途絶えにならむとすらむ」(作者)

現代訳:気がもめる事です、ほかのお方にさしあげる手紙のあるのを見ると、私などもうお見限りでしょうか。

作者はこのような文を出しました。この事で不快な日が続きましたが、10月の末に、3日も続いて彼の来ない夜がありました。

ある夕方、作者のところから出ようとした兼家が「今夜はどうしても宿直(とのい)を許していただけないから」と言ったので、作者は不審に思い、召使いに付けさせました。「町の小路の女のところで車をお止めになりました」という報告を受けて、疑っていた事が事実だと知ります。

たまらず情けないことだと思っていたら、2、3日して明け方に門(かど)が叩かれました。兼家であろうと思うと、うとましくて作者は門を開けさせませんでした。すると町の小路の女の家と思われる方へ行きます。翌朝になって、作者はこのままにしておけない気がして、

「歎きつつ一人寝る夜の明くる問はいかに久しきものとかはしる」(作者)

現代訳:あなたがおいでにならないことを嘆き哀しみながら夜が明けるまで一人で孤独に過ごす時間が、私にとってどれほど長く感じられるか、あなたはご存知でしょうか。ご存知ないでしょうね。

という歌を何時もより丁寧に書き、もう色変わりしている菊の枝につけて兼家に送りました。兼家の返事は「お腹立ちはごもっともで様子を見ようとしたのですが、急用を持った使いが来たので帰りました。あなたの歌はその通りです。」

「げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸も遅くあくるはわびしかりけり」(兼家)

現代訳:その通りだ、冬の夜がなかなか明けないのはつらいものだが、さりとて、門をいつまでも開けてもらえないのもつらいものだ。

『私を不快がらせているのだから、せめて当分は隠して、御所にご用があったとしてでもくれればよいのに、恥じる事もなく女の家から返事を書いて来る事などあってよいことであろうか。』
と、作者は書いています。

『蜻蛉日記』上巻あらすじ③:ほかの女のもとへ通う藤原兼家と作者の寂しさ

次の3月に、節句の桃の花など用意したものの、兼家は来ませんでした。4日の朝になってやって来るのですが、見せようとして切っておいた桃の枝から花房を折って、黙っても居られず、

「待つほどの昨日過ぎにし花の枝は今日折ることのかひなかりける」(作者)

現代訳:お待ちしていたのに、昨夜は他の人のところにお泊まりになったのですから、今更桃の枝を折っても無駄なことですね。

兼家は、
「三千歳(みちとせ)を見つべき身には年ごとにすくにもあらぬ花としらせむ」(兼家)

現代訳:三千年に一度実がなると言う西王母(せいおうぽ)の武帝ではないが、せいぜい長生きをして、末永くそなたと連れ添うつもりの私には、一年毎に桃の酒など飲むには当たるまい、それをしらせたくて、昨日は来なかったのだよ。

こうして、兼家は町の女のところへ公然と通うようになります

くやしいけれど、どうしようもない。経済上のことなどは問題なかったのですが、ただ、夫の愛だけが不実なものでありました。おそらく、沢山の子どもが居る兼家の先の妻(時姫)も、私(作者)と同じ気持だろうと、作者は時姫に文を出します。

「そこにさえ刈るといふなる真菰草(まこもぐさ)いかなる沢に根をとどむらむ」(作者)

現代訳:あなたのもとへさえ、このごろは夜離がちという真菰草(兼家)一体どのあたりに根をおろしているのでしょう。

返しは、
「真菰草かるとは淀の沢なれや根をとどむてふ沢はそこかと」(時姫)

現代訳:根をおろしているのはあなたのところではないですか。
※淀は夜殿、寝室のこと

さっぱり縁を切られた方が、たまに来る人を待つよりましだろうと思っていたとき、ひょっこりと兼家が来ます。作者はものも言わずにいましたが、

「をりならで色づきにけるもみじ葉は時にあひてぞ色まさりける」(兼家)

現代訳:その季節でもないのに、はやくも色づき染めた紅葉のように、秋をむかえて、あなたはさらにきれいになった。

返しは、
「秋にあふ色こそましてわびしけれ下葉をだにも歎きしものを」(作者)

現代訳:空々しいこと、勝るのは秋の色です。見捨てられた私はわびしいかぎりです。下葉のうつろいさえ歎いていますのに。

作者の家は、兼家が御所から退出する途中にあるので、夜中や明け方に咳払いして前を通る彼の声を聞くまいと思っても、耳に入ってねむれず、何にも例えようがないほど辛い。完全に別れるつもりはないようで、時々は来ることがありました。作者はいつも子ども相手に暮らしていました。

冬が過ぎて、また年が明けて春になりました。兼家は書物をとりに来て、その時包んでやる紙に、

「ふみおきしうらも心もあれたれば跡をとどめぬ千烏なりけり」(作者)

現代訳:荒れた浜に千烏が舞い降りないように、書物さえも私のところにはおかないのですね。

『蜻蛉日記』上巻あらすじ④:藤原兼家の女「町の小路の女」の出産と作者の苦悩

夏になって、町の小路の女のお産が近づいて、方違いに行くのに兼家も同乗して、京中が振動するような行列をつくり、作者の家の門前を行くではありませんか。作者はすっかり上気してものも言えません

女房が「他に路があるのに、残酷なことですね」と言うのに、もう死んでしまいたいと思いますが、思うようにいきません。3、4日して、兼家から「お産はすんだけれど、まだ穢れがあるので、そちらへは行けない」と文が来ます。作者は「受け取りました」とだけ返事をしました。

使いの女房に聞くと「若様でした」と。作者の胸はいっそう苦しくなりました。兼家が来ても作者が無視するので、兼家はきまり悪そうにかえって行くことが多くありました。

7月になって、御所で相撲のあるころ、着物に仕立てて欲しいと、古いのや新しい衣装を兼家が持たせて来させたので、作者は怒りに目がくらむような気がします。しかし、昔風の母が、「あの家ではこんなこともできる人がいないのでしょう、お気の毒に」と言います。召使たちは「してあげることはありませんよ」と言ってそのまま返しました。向こうではあちこちに頼みこんで仕立ててもらったようでした。

町の小路の女の失意こうしているうちに、女が子どもを産んでからは兼家の足が遠のいたらしく、私が苦しんだようにあの女も辛い思いをすればいいと作者が思っていたところ、大騒ぎして産んだ子までも死んでしまったとのことです。

『あの女は、世を拗ねた偏屈者の皇子の日影者で、言いようもないほど素性は悪いのに、物を知らない人たちにチャホヤされていて、いまこんなふうになって、私は胸のすく思いです。』
と、作者は書いています。

『蜻蛉日記』上巻あらすじから読み解く作者と藤原兼家の間に入った亀裂

作者にとっては、町の小路の女のことは、青天の露震とも言うべき出来事でした。しかし兼家は、また性懲りも無く、宰相謙忠の娘の元へ通い始めました。作者は胸の内を長文で兼家に訴えます。兼家の返事が、現代文になっているのがあるので、記しておきましょう。

『結婚後、愛情が移るうというが、それは世の男性の常である。ところが私は違う。陸奥に旅立った父上が書きおかれた心を思えばこそ、そなたを愛おしくおもって、せっせと通って行ったが、そなたの依枯地はつのるばかり。いつぞやなぞ、せっかく訪れたのに、そなたは姿も見せず、一人侘しく寝覚めがちな夜を過ごした。そんなところから疎(うと)む心が兆し始めたのだ。それをそれほどまでも根に持つのなら、どうなりとそなたの思ようにするがよい。逸見(へみ)の御牧の荒駒はとても私の手に負えない。と言ってそうなったら、片飼いの駒(道綱)があわれではないか。兼家』

『蜻蛉日記』上巻あらすじから読み解く一夫多妻・藤原兼家の妻たち

藤原兼家には多くの妻がありました。若い頃の兼家はかなり深い愛を作者に持っていたらしいですが、子を多く生んだ最初の妻・時姫のところを自家と思っていました。

すでにその頃から作者は二番目であることに不満を感じていました。しかし、兼家と他の幾人かの女との恋愛関係は恨みつつも、自身がその中では一番上の地歩を占めている自信はありました。それでも、兼家への嫉妬に終生苦しめられます

藤原兼家が関係した女性たち

時姫は最初の妻で、道隆、道兼、道長、超子、詮子を儲けました。道隆、道兼、道長は関白になり、超子、詮子は、それぞれ冷泉、円融帝の妃として、一条、三条帝を生みます。
子煩悩な兼家は、時姫が生んだ聡明な息子達と天皇や院の後宮で輝く娘達を重んじました。

町の小路の女は、悲恋の女として、室生犀星の「かげろうの日記遺文」にとりあげられています。

宰相兼忠の女は、栓子に仕え「宮の宣旨」と呼ばれました。後にその娘が作者の養女になりました。

近江は、日記の後半で兼家の寵愛を受けた女性で、「色めく女」と言われ、道隆とも通じていました。

保子(みこ)内親王は、近江でなければ「もしかしたら、先帝の皇女達かもしれない」と侍女達に噂された女性。後に物怪になって兼家を苦しめたといいます。

藤原忠幹(ただもと)の女。詳細は不明ですが、「日本第一の色白」といわれています。

芙輔は、籠芋付きの侍女でしたが、時姫没後、兼家の寵を得て妾となり、権の夫人として権勢をふるいました。あらゆる官人が除目の前に彼女のもとへ哀訴に来たといいます。

⑧兼家は作者との交渉が絶えて、摂政になった頃には独身生活はよろしくないと忠告され、村上帝の皇女中将御息所と老後の結婚をしましたが、この結婚は幸福なものではなかったようです。

『蜻蛉日記』の作者からみる平安時代の女性たち

中巻では、兼家の病気、本人の病気などもあって二人の仲が穏やかな雰囲気になることも描かれていますが、基本的に「蜻蛉日記」の作者は、嫉妬に苦しんだ半生だったと言えるかもしれません。下巻では、我が子・道綱の恋愛の世話に終始しています。

「かく、としつきはつもれど、思ふやうにもあらぬ身をなげけば、声あらたまるにもよろこばしからず。なほものはかなきを思へばあるかなきかの心地する、かげろふ(陽炎)のにきといふべし」

現代訳:年月は幾つも過ぎていくけれど、思うようにならない身の上を嘆き続けているので、新しい年を迎えても嬉しい気持ちにもならず、相も変わらない儚い身の上であることを想うと、かげろうのようにはかない女の日記ということになろう。

 

上巻最後の作者の言葉「ものはかなき」は、当時の女性たち多くの想いだったのではないでしょうか。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

【筆者】能勢初枝

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1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り、現在は大阪市内に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)

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