更新日: 2024年9月24日
『蜻蛉日記』上巻あらすじから読み解く作者と夫・藤原兼家との関係
『蜻蛉日記』の作者は、正四位下陸奥守藤原倫寧の女(娘)、後の太政大臣藤原兼家の妻、右大将藤原道綱の母で、本名は伝わっていません。
天暦8年(954) 頃、推定19オで26オの藤原兼家と結ばれ、本名は不明ですが、「尊卑分脈」に「本朝三美人の内なり」とあるので、オ色兼備のかなりの美人だったと思われます。それだけに、気ぐらいの高い女性だったことが日記からも読み取れます。
天暦8年(954)頃から天延2年(974)頃までの約19年間の日記は、上、中、下巻にわかれていますが、特に上巻では、愛の苦悩が具体的に語られていて興味深いです。
ここでは、おもに『蜻蛉日記』上巻のあらすじとともに、作者の思いをたどっていきます。
目次
『蜻蛉日記』上巻あらすじ①:作者と藤原兼家の結婚
序時の流れの赴くままに現在が遠慮なく過去となって行く世の中に、存在もあやふやな哀れな一人の女性(作者自身)がいました。
容貌と言っても、なにも群を抜いたものでもなく、利発な生まれつきでもないのであるから、こんなふうに自分は誰からも無視されているのも道理なことであると思い、寂しく暮らしていました。
いくつかの軽薄な恋愛は省くとして、右衛門府の役人である人(26オの藤原兼家)が求婚して来た事から書きましょう。
普通の場合は、仲介者などが最初は話を持って来るのでありますが、この申し込みは、父である人へ直接申し込まれました。
公然と馬に乗った使いに門を叩かせて手紙を送って来たので、作者の召使いも受け取らないわけにはいきません。紙なども風流でもなく、字も上手でもないのが不思議でした。
「音にのみ聞けば悲しなほととぎすこと語らはむと思ふ心あり」(兼家)
現代訳:お噂だけ聞いてお会い出来ないのは切ない。是非とも直接お会いしてお話ししたい。
度々このような歌を贈ってくるのですが、簡単に返歌しないつもりでした。ですが、昔風の母親が、相手は貴族なのだから返事をしなさいというので、このように返します。
「語らはむ人なき里にほととぎすかひなかるべき声なふるしそ」(作者)
現代訳:このあたりにはお話相手になるような人もいませんので、いくらお便りくださってもむだです。
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【筆者】能勢初枝
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1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り、現在は大阪市内に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)