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平安京へ遷都するも天皇の界隈では権謀術数が渦巻く

よく知られているのが桓武の弟の早良親王憤死事件藤原種継暗殺の首謀者とされたことに抗議して餓死してしまいます。このとき既に故人だった大伴家持まで事件の関係者にされ、これで大伴氏は力を失います。

藤原種継暗殺と早良皇太子憤死事件

延厩四(785)年、桓武天皇の寵臣で式家のホープであった藤原種継が、天皇の留守の問に射殺されるという不可解な事件が起こりました。すぐさま犯人捜査がなされ、大伴氏と佐伯氏の多くが逮捕されました。そのとき、首謀者とされた大伴継人らは「亡くなった大伴家持の計略で種継を除けということで、早良皇太子に啓してこのことを行なった」と言ったのです。
そのため、早良皇太子も捕らえられて乙訓寺に移されました。天皇は皇太子を淡路へ移すことにしましたが、呈太子は無実を主張して十日間飲食を絶ったのです。そのため淀川の高瀬橋に着いた時にはすでにこと切れておりましたので、屍を淡路島に運んで埋葬したのでした。
すでに故人となっていた大友家持も官位剥奪となりました。

伊予親王の横死事件

桓武の子、伊予親王横死事件というのもありました。

大同二(807)年、藤原宗成が伊予親王に謀反を勧めているという秘密の情報を得た藤原吉子(桓武天皇の后)の兄の藤原雄友(伊予の叔父)は、これを内大臣内麻呂に伝え、また伊予親王にも忠告しました。そこで伊予親王は宗成が謀反を勧めたいきさつを、平城天皇に対して説明し潔白を主張しました。朝廷が宗成を捕えて尋問したところ、宗成は、親王が謀反の張本人だと言い張ったのです。
激怒した平城天皇は伊予親王と母親の吉子を捕えて、ニ人を川原寺へ幽閉しました。叔父の雄友は、伊予親王が潔白であると弁護したが、これも捕えられて官位を奪われ伊予の国へ流されたのでした。
幽閉された二人は毒をあおって自害。この間、内麻呂はなんら伊予たちのために動かなかったといいます。

平安京と天皇~平城天皇と薬子

それから「薬子の変」。これは桓武天皇の長子の平城天皇が即位はするものの、身体が悪くて一度退位するのですが、薬子という強烈な女人に逢い、彼女に煽られて、再び皇位をねらって平城京へ還ろうと言って失敗する事件です。この時平城天皇の弟の嵯峨天皇が位を継いでいます。

薬子の変

暗殺された藤原種継の娘、薬子(くすこ)は、藤原縄主に嫁いで三男二女をもうけていました。その長女が安殿(あて)皇太子(平城天皇)の后として宮廷に入った際に母親として従って来て、薬子自身が皇太子と関係ができます。桓武天皇はそうした屡係を嫌ったので、一度は宮廷を去りますが、桓武天皇が引退して安殿が平城天皇になると、再び宮廷に入り、上皇の死後は尚侍として兄の仲成とともに平城天皇を操ります。
平城天皇は怨霊を恐れて、心身共に衰弱して皇位を12オ年下の同腹の弟、嵯峨に譲ります。薬子兄妹はこれが不満で、上皇にすすめて平城京に宮殿を造らせ、『二所朝廷』といわれました。さらに平安京を廃止しすることまで宣言させたのです。

さすがに怒った嵯崚天皇側は、仲成を捕えて殺害しました。それでも薬子は懲りず、兵を集めて朝廷側に戦いを挑みますが、敗れて殺害されました。

この事件後、平城上皇は出家し、平城の皇子の高岳(たかおか)皇太子は廃止され、嵯峨の異腹の弟である淳和が皇太子に立ちました。

平安京と天皇~嵯峨天皇と橘嘉智子

嵯峨天皇は、100人もの妃をおき、皇子、皇女が50人以上いました。それぞれの母親たちは我が子こそ次の天皇にとしのぎを削る中、なんと「橘奈良麻呂の変」で失脚する橘一族の橘嘉智子が皇后になります。

自分の息子の正良親王を皇太子にし、仁明天皇として即位させ、そして自らは壇林皇后として力を発揮します。多くの皇子たちを賜姓源氏として、弘仁五年(814)以後、臣下に下しました。そして、賜姓源氏から信・常・融などが出て、藤原氏とともに勢力を拡大していきます。

嵯峨天皇の后である橘嘉智子のすごいところは、実の娘が淳和天皇との間にもうけた恒貞親王も、また平城天皇皇子高岳親王も、策謀で潰しています。藤原氏在原業平らも利用します。

そのほか、「承和の変」「応天門の変」があって、大伴氏、紀氏、小野氏などが廃れます。古代の蘇我、物部氏はすでに滅んでいます。

承和の変

承和九(842)年伴健苓(とものこわみU)、橘逸勢(たちばなはやなり)らが淳和天皇の皇太子である恒貞親王を擁して謀反を企てたとして二人を流罪にし、恒貞親王を廃しました。
藤原良房の計画した陰謀だといわれ、事件後、良房の妹が生んだ道康親王が皇太子(文徳天皇)となりました。

応天門の変

貞観八(866)年、平安京の応天門が炎上。大納言伴善男は左大臣源信の放火によると訴えましたが.
かえって遠流に処されました。大伴氏、紀氏の名家が没落し、藤原氏の隆盛が決定的になった事件です。

陰謀と策略が渦巻いた平安京の天皇たち

天皇の兄弟、子、后はもとより、側近の貴族まで広がった後継争い。無実で処刑されたものや貶められたものも少なくありません。

陰謀が渦巻いた平安京では、怨霊に祟られていたというのも大げさだはないのかもしれません。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

【筆者】能勢初枝

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1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り、現在は大阪市内に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)

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