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黒岩涙香の推察からみる小野小町「采女」説

明治~大正時代の作家・新聞記者「黒岩涙香」は、小野小町は正良親王(第54代仁明天皇)の采女(うねめ)だったのではないかと推察しています。

「采女」というのは、律令制でさだめられた女性の役職で、天皇や皇太子の身の回りのお世話をする十三歳から二十歳までの美しい処女で、郡司など地方官の娘ということになっています。律令の解釈書(令義解)に「姉妹および子女の容姿端麗のものを賜われ、従丁一人従女二人、百戸を持って采女一人が娘にあてよ」とあります。

「古今集」に「小町が姉」の歌があるので、姉妹で出仕したのではないかと考えられます。
※「町」は常寧殿(じょうねいでん)に住む女房の呼び名

平安時代「采女」と天皇家の権力争い

天皇の「きさき」は、律令制で、皇后一人、妃二人、夫人(ぶにん)三人、嬪(ひん)四人の計十人とし、皇族や貴族の娘があてられましたが、平安時代になると、実際は十人以上いました。
采女は、それより下の階層の地方官の子弟です。しかし、天智天皇の皇子「弘文」は、采女が母親です。采女が生んだ子でも皇太子になることがありました。

平安時代もすすむに従って呼び名も変わっていき、伊勢や紫式部などは、受領の娘と呼ばれています。受領とは、元は国司など地方官の交代事務引継のことを言った用語ですが、国司や郡司そのものをさすようになりました。
妃、夫人、嬪に替わって、中宮、女御、更衣が用いられるようになったのも平安時代からで、この頃が、ちょうどその交代期だったのでしょう。

歌から読み解く小野小町の恋

小野小町と正良親王(五十四代仁明天皇の皇太子時代の名)の二人はものすごく好き合っていました。ですが、権力者(藤原氏など)によって引き裂かれ、小野小町は皇子に逢うことも出来なくなります。

人に逢はむつきのなき夜は思ひおきて胸はしり火の心鏡けおり

現代訳:あの人に逢う為の「つきがない」月明かりがない、方法がない。眠ることもできず、目はさえて、思いは激しく胸の中を火となって走り、心は焼けている。

激しく直載な恋。恋しい皇子と引き裂かれた小野小町は、夢の中で正良親王に逢うことで、やっと生きているのです。

他にも、小野小町はこのような歌を残しています。

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
現代訳:思いながら寝たからこそ、あの人が夢に現れたのだろうか。夢と分かっていれば、目覚めなかったのに。

うたたねに恋しき人を見てしより夢てふものは頼み初めてき
いとせめて恋しきときはうば玉の夜の衣をかへしてぞ着る

現代訳:うたた寝をしている間に、恋しい人を夢の中で見てからというもの、夢というものを頼りにする。せめて恋した時は、黒い夜のふりをして(夢の中で恋をする人に会うために)寝る。

やんごとなき人の忍び給ふに うつつにはさもこそあらめ夢にさへ人目つつむと見るがわびしさ
現代訳:尊い方(正良親王?)が忍んでいらした夢。現実にはともかく、夢でまで人目をはばかるなんて、なんと寂しいことだろう。

限りなき思ひのままに夜もこむ夢路をさえに人はとがめじ
現代訳:ずっと思い続けているうちに夜になる、夢で逢いに行くことまで、人はとがめはしないでしょう。夢だけに頼ることに、耐えられなくなって、局の前を通る人に、思わず訴えてしまいます。

前渡りし人に誰となくとらせたりし空を行く月の光を雲ゐより見でや闇にて世ははてぬべき
現代訳:空にある月の光は、雲にさえぎられて見ることもなく、闇のままにこの世は終わるのか。

「月の光」とは、恋人の皇子のことです。小野小町は怒らずにはいられなかったのです。

小野小町の実像を貶めた藤原氏の思惑

この時代は、天皇でも貴族でも、複数の妃や妻を持っていたのに、なぜ小野小町だけは、こんな目に遭わされたのでしょう。

藤原氏には、この時、皇后にするに相応しい年齢の娘があまりいませんでした。藤原氏が権力を得るために、年上であろうと、なんであろうと、藤原の娘を天皇の側へ送り込み、とにかく天皇の子を生ませて皇太子にする、そして自ら外祖父として権力を握らねばとあせっていたようです。(このころから若い、幼い天皇が増えます。幼なければ、うしろから操りやすいわけです)

ですから、藤原氏は橘系である仁明天皇の子を小野小町なぞに生ませてなるものかと、なんとしても小町を排除しなければならなかったのです。

藤原氏にとっては、最大のライバル・小野小町を仁明天皇の側から排除するだけでは足りないのか、彼女を徹底的に貶めます。

「哀れな女」とされた小野小町伝説

平安初・中期に「玉造小町子荘衰書(たまつくりこまちこそうすいしょ)」という奇書が現れます。作者不明の仏教説話風漢詩です。

内容は、

「昔、自分は名家の娘で、贅沢の限りを尽くしてくらしていたが、両親兄弟が亡くなったあと、落ちぶれて猟師の妾になったが、その妻と同じ家に住まわされ、召使いのごとく扱われ、また子どもも亡くなって、そこも追い出されて、こうして物乞いしている」

狂気の乞食女が通りすがりの人に延々と語るのです。

こちらの奇書は小野小町とは無関係ですが、「小町」と付いているために小野小町のこととされ、これが元になって「卒塔婆(そとば)小町」「鵜鵡(おうむ)小町」「関寺小町」「通小町」「草紙洗い小町」など、謡曲の小町ものが出来ます。

例えば謡曲「通小町」は深草少将(ふかくさしょうしょう)という人が小野小町に思いをよせるのですが、百日通ってくればあなたの望みを叶えようと言うので、せっせと通って来ますが九十九日目に彼は死んでしまいます。これは小野小町が性的不能者だったという話にされてしまいます。

ただ、「草紙洗い小町」は大伴黒主が、小野小町の歌を自分のもののように見せようとしてばれる話で、おもむきは多少ちがいますが、他はすべて因果応報、贅沢や駆慢、好色の報いだというわけなのです。

小野小町は最期はしやれ頭(こうべ)になって、道端で痛い痛いと泣くなどと、いつのまにか哀れな小野小町伝説が、全国にひろがったようです。

小野小町の実像を紀貫之は知っていた?

『古今集』の仮名序を書いていることで知られる紀貫之は、柿本人麻呂は別格として、近年の名の知れた歌詠みについて、批評を書いています。

僧遍昭(そうへんじょう)は「歌の様はいいが、誠がすくない」、在原業平(ありはらなりひら)は「心あまりて言葉たらず、しぼんだ花に色がなく、にほひが残っているようなもの」。
文屋康秀は「商人がいい着物をきているようで、言葉が身に合ってない」、僧喜撰(そうきせん)は「言葉がかすかで、初めと終りがはっきりしない、秋の月をみているのに明け方の雲が隠しているようなものだ」と言い、大伴黒王は「そのさまがいやしい」等と批判しているのですが、小野小町だけは違います

紀貫之からみる小野小町の実像

「小野小町は、いにしへの衣通姫の流れなり。あはれなるやうにて、強からず。言はば、よき女の悩めるところに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。」
現代訳:小野小町は、昔の衣通姫のような風流な歌人である。哀愁がありながら、力強くはない。言い換えれば、美しい女性が苦しんでいる様子に似ている。力強くないのは、女性の歌だからであろう。

と書き、

衣通姫の歌「わがせこが来べきよひなり、ささがにのくものふるまひかねてしるしも」
現代訳:今宵は天皇が来てくれるのでしょう、蜘蛛が騒いで巣を造っていますもの

を載せています。

衣通姫(そとはりひめ)は允恭天皇(いんぎょう)の后の妹で、衣の上から美しさが透けて見えるほどの美人。允恭天皇と深く愛し合いますが、姫は姉の嫉妬を思って、自ら身を引くのです。

紀貫之は小野小町から二、三十年後の人ですが、それほど昔のことではありませんから、おそらくかなり詳しく小野小町と正良親王(仁明天皇)のことは知っていたのでしょう。でも、直接そんなことが言えるわけはありませんので、「日本書紀」の允恭天皇と衣通姫の話にことよせて、小野小町の悲恋を世に訴えたかったのではないでしょうか。

小野小町の実像~歌に表れている静かな恋心

小野小町の年令は不明ですが、正良親王と同じくらいだと思われます。仁明天皇は弘仁元(810)年生まれ、嘉祥三(850)年、41歳で亡くなります。天皇が亡くなったとき、小野小町も40歳くらいだったのではないでしょうか。昔のような激しさはありませんが、初恋の人への思いは続いていたように思われます。

「見しひとのなくなりしころ」の詞書で、
あるはなくなきは数そふ世の中にあはれいづれの日まで嘆かむ
現代訳:生きてる人は数が少のうなり、亡くなる人が増えていく世の中にいつまで嘆きは続くのでしょう

夢ならばまた見るかひもありなましうつつなになかなかの現なるらん
現代訳:あの方が亡くなったことが夢なら、また逢うこともあるのに、なんで現実なんでしょう

と嘆き、そして、

花の色は移りにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに 世の中は夢かうつつか現とも夢とも知らずありてなければ
現代訳:桜の花の色はむなしくも色あせてしまいました。私の身も、この世で物思いにふけって過ごしている間にこの世の中は夢なのか現実なのか、現実とも夢とも区別がつかないまま存在しているようです

と、しみじみ詠っています。

小野小町の実像は愛する人を思い続けた

「小野小町」の実像を明治時代の書物や歴史背景、残された歌から推察してきました。

このほかにも、伊予親王の母親は小野氏だといわれることから小野小町は天皇の更衣であった小野吉子(きちこ)ではという説がありますが、小野小町は桓武天皇の妃ではありません。
また、律令制により諸氏から朝廷へ差し出された氏女説もあります。

いずれにしても、説話や謡曲として伝達される小野小町像とは、とうてい考えられません。

これから小野小町の歌を詠む機会があれば、晩年まで正良親王(仁明天皇)を想った切ない女性を思い浮かべてみてはいかがでしょう。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

【筆者】能勢初枝

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1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り、現在は大阪市内に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)

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