『紫式部日記』から想像する夫・藤原宣孝の関係性について
紫式部は、夫、藤原宣孝と死別したあと、独りぼっちで憂鬱な物思いの中で、物語を読んで慰められたといいます。
『紫式部日記』には「人生の苦しみ」についての具体的な記述はありませんが、おそらく、藤原宣孝との死別であろうと想像します。
右衛門佐の藤原宣孝(のぶたか)には、正室として中納言朝忠の娘がいましたが、紫式部と知り合ったのは、紫式部が23歳頃のことで、夫の藤原宣孝は紫式部の父と同じぐらいの年齢。二人の年齢は親子ほど離れていました。
『紫式部日記』を近現代女流作家が読み解いた紫式部の人生
このことを与謝野晶子は、宣孝との結婚は、「源氏物語」で空蝉が老伊豫介の妻になったように、紫式部も老人相手では幸せではなかっただろう、と想像しました。
しかし、作家の田辺聖子は、若い式部の才能をかって育てようとした宣孝の大人の愛情に、式部は甘えることができて、その間幸せだっただろうと言いました。
しかし、その幸せな暮らしも、宣孝の死で2年間で終わるので、それを「人生の苦しみ」と表現しているのかもしれません。
小説「源氏物語」の中では、空蝉が式部自身だとする説も多いですが、田辺聖子は「紫の上」に紫式部を重ねました。
少女時代から大切に育てた「紫の上」は、光源氏にとって特別の存在でした。しかし、源氏が女三宮(おんなさんのみや)を正妻として迎えたとき、紫の上は強く嫉妬に苦しんで、出家をのぞみます。
「恋」とは「乞い」だといいます。光源氏が、まるでさわやかなロマンように次々と女たちと関係しているとき、紫の上は、光源氏を「乞い、求め」ていました。居ないから、肉体だけではなく、心を「乞い、求めて」苦しんでいたのです。
紫式部日記から読み解く紫式部の性格は辛辣だった?
日記の中宮を囲む宮中の出来事のなかに、同輩の女達の描写があります。
「和泉式部という人は、やむなく放埒な一面はあるけれど、友人に書く手紙などは飾り気がなく、文学者としての素質が充分に感じられる妙味のあるものである。現実を詠む歌の中にも、人の心を引く部分が必ずある。」と認めていますが、「しかしこれほどの人でも、他人の歌の批評をしているのを見ると、まだ充分歌というものが分ってないらしくおもわれる。」とも批判しています。
清少納言に関しては手厳しく、「清少納言は、オを鼻にかけて、出しゃばりの代表的な女だ、漢学の素簑があると自慢して書いた文章も、よく見ればまだ生半可であることが多い。このようにわざと、個性を人と違うと著わそうとしても、その時はよくても、何れ飽きられる。」と述べています。
ただし、紫式部と清少納言は時代が離れていて、出合ったことはないと言われています。
紫式部日記から読み解く~歌に込められた想い
では、最後に紫式部日記から歌を一句、ご紹介しましょう。
としくれてわが世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな
現代訳: 年が暮れて、私の人生も老いていく。この風の音に心の内がなんと荒涼としていることか
※「すさまじ」は、興ざめ、白けるの意味
この歌は、年末に感じる寂しさと、人生の移り変わりへの感慨を詠んだものです。年が終わりを迎え、自分の人生もまた老いていく中で、風の音が心の中の寂しさや物悲しさを一層引き立てている、という意味になります。
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【筆者】能勢初枝
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1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り、現在は大阪市内に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)