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『和泉式部日記』から読み解く和泉式部と敦道親王との関係
しかし、敦道親王は二人の関係が世間に知られないように、「このことは秘密にしておけ、世間の人から軽率な男と思われるから」と言い、二人は石山の別荘などで密かに逢っていましたが、次第に周囲に知られるようになり、敦道親王は、和泉式部を自分の屋敷に引き取りました。
男が女の家に通うのが当時の常識だったので、女が男の家に住むということは、女の身分が低いか、経済的に困窮している場合でした。ですので、親王の家人たち、女房たちは「どうしてあんな女を屋敷にいれるのか、親王様の心がわからない」と和泉式部を嫌ったのでした。
敦道親王は「彼女は召人として、私の髪を結ったり、着物の世話をさせる為に置いているので、あなた達も自由に彼女を使っていいよ」と、屋敷の者たちに言いました。
和泉式部は屋敷を出ようかとも思いましたが、敦道親王にも引き止められたこともあり、そもそも帰るところがありませんでした。またこの敦道親王が美男であると世間が認める通り、和泉式部もそれに違わず類いない方だという思いもあり別れ難く、そのまま屋敷に留まりました。
『和泉式部日記』は為尊親王、敦道親王との恋の回想を記した日記
『和泉式部日記』には「山を出て冥き道にぞたどりにし今一度の逢ふことにより」という歌がありますが、京の木船の道に「冥きより冥き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月」という歌碑が立っています。
冥き道とは、激しい恋の路かと思われますが、後の歌は、為尊親王との恋に続いて、弟の敦道親王との恋の溺れて行った自分の業の深さを、月に象徴される仏に救いを求めたのでしょう。
為尊親王との恋のあと敦道親王と出会って、再び恋の虜になった自分を罪深いと思いながら、そのようにしか生きられない自分の人生の記憶を書かずにいられず、三人称の形式で回想風に記したのがこの『和泉式部日記』なのです。
『和泉式部日記』から読み解く和泉式部が貫いた生き方とは
寛弘四年、敦道親王の死によって恋はおわり、その後、和泉式部は中宮彰子に仕え、その家司、藤原保昌と再婚しましたが、20歳の年齢差のせいか夫婦仲は円満ではなかったようで、万寿元年(1024)、藤原保昌が大和守となったとき別れています。
その男性遍歴から、世間から「浮かれ女」と呼ばれますが、彼女には生きるとは恋することであり、激しい恋には、喜びや快楽とともに嫉妬や孤独、不安がつきまいますが、それでも世間の評判よりも恋の悦惚を選んだのでした。
与謝野晶子の和泉式部に対する評価
与謝野晶子は、和泉式部を高く評価しています。
「黒髪の乱れも知らずうち臥せばまず掻きやりし人ぞ恋しき」「物思へば沢の蛍もわが身よりあこがれいづる魂かとぞみる」、晶子は「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君」でこたえています。
『和泉式部日記』から読み解く和泉式部の晩年
敦道親王の死の翌年、娘の小式部にも先立たれた和泉式部。藤原保昌と別れた後、晩年の消息はわかっていません。
そんな波乱万丈な人生を送った和泉式部の『和泉式部日記』より、最後に一句ご紹介しましょう。
あらざらむこの世の外の思ひ出にいまひとたびの逢ふこともがな
現代訳: あの世という世界はないものと思っているが、もしもあの世があるならば、もう一度だけあなたに逢いたいものです。
和泉式部の深い愛情と切なさを表現しています。彼女は、この世を去る前にもう一度だけ大切な人と逢いたいと願い、その思い出を来世に持ち越したいと詠んでいます。
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【筆者】能勢初枝
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1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り、現在は大阪市内に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)