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USJによって大きく変わった此花区

▲1960年の此花区。前回に引き続き、昭文社最古の地図をお借りした

今和泉:
さて、ここで1960年の地図を広げてみましょう。現在のUSJは、当時住友金属工業の工場の一部です。住友金属工業は新日本製鐵と合併し新日鉄住金となった後、現在は日本製鉄になりましたが、今でも近くには日本製鉄の工場があります。

少年B:
当時はUSJの3倍ぐらいの面積があったんですね。今もUSJと同じぐらい広い工場が残ってますが……!

▲現在のUSJは、以前住友金属と日立造船の工場だった。当時の国鉄桜島線(現在のJRゆめ咲線)の線路や駅の位置も変わっている(クリックで拡大)

今和泉:
1960年当時の桜島駅の南には日立造船があります。桜島は日立造船への通勤客が多かったんじゃないかと思います。貨物線も多かったんですが、貨物の取り扱いがあったのは1986年までです。

少年B:
日立造船、うちのおじいちゃんが勤めてた会社です。ちょうどこの時代に桜島まで通ってたみたいです。

今和泉:
なんと! それは奇遇ですね。あと、よく見ると路線の形も変わっています。旧線はユニバーサルシティウォークのあたりを通ってたんですが、USJの建設に伴って南に移転し、桜島駅も日立造船の工場のあたりに移りました。

少年B:
ほんとだ。よく見るとけっこう変わってますね。

今和泉:
よく見ると、ここまで路面電車も来たんですね。1962年に島屋橋ー桜島駅前間が廃止されるので、この地図は貴重な資料ですね。ほかに注目すべき点は運河が消えてることでしょうか。

少年B:
北港運河ですね。道路になってる。

今和泉:
クルマでUSJに行く人が必ず通るであろう道が運河だったとは、意外ですよね。道路の北側にほんの少しだけ残ってますが。

▲1960年の西九条駅周辺。環状線が全通しておらず、阪神は千鳥橋止まりだ(クリックで拡大)

今和泉:
桜島から北西、梅田方面に進むと着くのが西九条です。1960年の地図を見るとわかりますが、まだ大阪環状線が全通していない上、阪神電車も来てません。

少年B:
阪神西大阪線の終点は長らく西九条というイメージだったけど、この頃は千鳥橋止まりなんだ。それにしても、こうして見ると西成線は関東だと鶴見線みたいな感じの雰囲気だったんですね……。

今和泉:
そうでしょうね。USJによってだいぶ客層が変わったと思います。

消えた川の痕跡を探す

今和泉:
さらに言えば、運河どころか川も消えてます。

少年B:
正連寺川ですね。2023年の地図を見ると、もはや入り江みたいだ。

▲中津川~正連寺川の変化(クリックで拡大)

今和泉:
地図上部を流れるのは今や大阪最大の河川、おなじみの淀川ですが、これは明治時代に新しくできた流路です。江戸川区の荒川放水路と近い例です。

少年B:
古地図だと「新淀川」だけど、完全に定着したのか、2023年の地図では「淀川」表記になってるのがおもしろいですね。

今和泉:
それから古地図を見ると、伝法駅の南あたりに不自然に土地が空いてるのがわかりますか?

少年B:
どこだろう、黒の点線(町境)のラインに沿ってですか……?

▲旧正蓮寺川と旧伝法川。旧伝法川の河口部分のみ現在も残り、漁協の表記も見える(クリックで拡大)

今和泉:
そうです、これも昔は川だったんですよ。2023年の地図で見ると、ライフや伝法コミュニティ広場があります。さすがに60年以上経つと痕跡がわかりませんね。

もうちょっと簡単なクイズを出しましょう。正連寺川は2023年現在、どうなっているでしょうか。

少年B:
えーっと……。わかった! 水色のライン……阪神高速でしょうか。

今和泉:
正解です! 正連寺川を暗渠化し、旧河道を阪神高速淀川左岸線に転用しました。

少年B:
旧河道高速道路になっているってことは、地上はどうなってるんですか? それに、なんで暗渠に整備したんでしょう。

今和泉:
地上は正蓮寺川公園や芝生が広がる空き地のようです。

暗渠にした理由は、1964年ごろから舟運の減少や河川水質の悪化、河川による地域の分断などを解消してほしいという要望があったみたいですね。

大正区に渡し舟が多い理由とは

今和泉:
続いては大正区に行きましょうか。

▲1960年の大正区

少年B:
大正区の中心駅はどこなんですか?

今和泉:
いまは大正駅があるんですが、この時代にはまだないですね。地図の一番右上に鉄道線が見えますが、1年後の1961年に、ここに大正駅が開業します。それまでは市電・バス・渡船だけでしたし、現在も区内を結ぶ鉄道や地下鉄はないので、バス交通が中心です。

少年B:
大正区は渡船が多いんでしたっけ。先ほど紹介した、友達のライターの記事も大正区が舞台でした。

▲大正区内は、現在も多数の渡船が残っている(クリックで拡大)

今和泉:
たくさんありますよ。昭和の時代ならありそうですが、今でも多数の渡船が現役なのが大阪のすごいところです。これはかなり貴重ですよ。

少年B:
此花区の天保山渡は橋がないからわかるんですが、こっちは橋がたくさんあるのにどうして渡船が多いんでしょう。

今和泉:
橋が高くて、渡りづらいからだと思います。新木津大橋や千本松大橋はループしてるし、千歳橋もかなり手前から高架になってますよね。千本松渡は私も乗ったことがあります。

少年B:
なるほど、高度の問題なんだ。

▲2023年の大正区。渡船が多く、橋はどれも高度を稼いでいる(クリックで拡大)

今和泉:
渡船に乗ってみたい方はぜひ大正区に行きましょう。ここまでたくさんあるのは貴重ですし、いい体験になりますよ。

大正運河の正体に迫る

今和泉:
中でも特徴的なのが、1960年の地図にある大正運河です。こんなに見事に消えるか? ってぐらい、きれいに跡形もなくなりました。そういえば、江東区の地図でこんな状況を見ませんでしたか?

少年B:
あっ、もしかして貯木場ですか!?

今和泉:
そうです。大正通にかかる橋が「材木橋」だったり、他にも材木屋さんがちょこちょこありますね。

手がかりがないのでわかりづらいですが、材木橋は2023年の地図だと千島公園のグラウンドと大正警察署のあたりでしょうか。

▲1960年当時は大正運河に材木橋がかかっていたが、現在は埋め立てられ、水路の跡地は千島公園になり、公園内には山(昭和山)もできている(クリックで拡大)

少年B:
難しすぎる……。言われてもぜんぜんわかりません。それにしても、このあたりは道路も水路も変わりすぎててビビりますね……。

今和泉:
大正区にたくさんあった材木業者は、1972年までに住之江区に移転したようです。現在の住之江区の地図を見ても、貯木池があります。

少年B:
これまでにも見た、宅地開発されて、工業は郊外へ……という流れですね。ということは、今の大正区は住宅街なんですか?

今和泉:
住んでる人も多いし、工場もたくさん残っているので、下町っぽい雰囲気があります。ただし、市電が廃止されてしまったので、電車はありません。区内北東端の大正駅から大正通を通って、南西部の鶴町4丁目に向かうバスがたくさん走っています。

少年B:
1960年の地図の市電ルートを、そのままバスが代替してるんですね。

今和泉:
大正駅から長堀鶴見緑地線の延伸構想はあるけど……財政的に厳しそうな気がします。これだけ大規模な埋め立てをしてたら、掘るのも大変そうですし。

それにしても、新旧の地図を重ねて見比べるのは難しいですよね。ただ埋め立てるだけじゃなくて、陸地だったところが海になってたりもしてますからね。区内のほとんどが陸地になる一方で、一部は掘られて港(大正内港)になりました。

▲1960年当時、千歳堀・大正運河があったところは、現在は大正内港となっている(クリックで拡大)

少年B:
人工的に内港を作ったってことですよね。なんでそんなことをしたんだろう。全部埋め立てて陸地にしちゃえばいいのに。

今和泉:
大正区は海抜0メートル地帯で、昔は浸水しまくってたらしいんです。大正内港を作ったことで陸地に溢れ出さずに溜めておけるようになったのと、陸地を掘ったことで出た土砂で引き続き陸地となるところには盛り土をしてかさ上げし、区画整理をしたんだとか。

少年B:
この前の神戸では山を削って埋立地を作りましたが、逆のパターンなんですね。人類ってすごい。

今和泉:
それから、町の境目が変わっているのも見逃せないポイントです。1960年の地図を見ると、町境がめちゃ斜めってません?

少年B:
本当だ。道路や地形とまったく合ってないですね。これはどうしてですか?

▲1960年の地図を見ると、黒い点線(町境)が道路と無関係に、斜めに引かれているのが見える(クリックで拡大)

今和泉:
戦前、都市化する前の田畑は、町境の黒点線と土曜、斜めに引かれていたようです。都市化した過程で、現在の縦横の街路になったようで。現在の地図では町名、町境も新しくなり、町境は現在の道路に沿って引かれています。

少年B:
あー!戦前はこれとはまた違う道路網だったんですね。1960年から今までの間でもかなり変わってるように見えますが、その前もずいぶん違うとは……!

今和泉:
運河や貯木場ができる前は、田畑が広がってはいたものの水路はなかったですし、明治から昭和にかけての変化はこれ以上に大きいと思います。

都島区ってどんな場所?

今和泉:
最後に、都島区を見てみましょう。前回記事の東区(現在の中央区)の北側です。

▲1960年の都島区

少年B:
大正区と違って、こっちには大阪環状線があるんですね。

今和泉:
はい、現在の大阪環状線の東側の区間ですが、当時は城東線と言われていたようです。

少年B:
あっ、まだ環状になってないから……! パッと見たところ京阪の京橋駅の位置が違いませんか?

今和泉:
その通りです。昔の京阪は少し北側を通っていました。今の地図を見ても、商店街や繁華街は北東側(地図右上)に寄っていますが、以前の京阪京橋駅を中心に広がっている、と思うと納得です。

少年B:
国道1号の向こうにアーケードの商店街(赤く塗られた細い道路)がありますね。そういうことだったのか。

▲JR線、京阪線、地下鉄の乗換駅の京橋駅の変化(クリックで拡大)

今和泉:
鯰江(なまずえ)川の南には近畿車両がありますが、1971年、ここにあるものがオープンします。

少年B:
今は空き地みたいですが、あるものとは……?

今和泉:
ダイエー京橋店です。旭区の千林商店街に「主婦の店ダイエー」として1号店となる小型店舗をオープンしたダイエーですが、その近くにありながら、大規模な店舗として、ダイエーの象徴的な店になりました。

駅前にある大型商業施設なので、商業施設好きとしては私も過去に行ったことがあります。ところが2019年に閉店し、現在は再開発中。暫定的に屋外フードコートみたいな感じになっているようです。

少年B:
へぇ、そんなお店が。京橋って行ったことがないんですが、かなり賑わってるんですね……!

今和泉:
環状線と京阪線の乗り換え客が多く、賑わっている街のひとつです。

今和泉:
それから、1960年の地図を見ると、京阪京橋駅の北側に映画館や劇場がかなり多いですね。

少年B:
劇場もあるし、下北沢的な街だったんでしょうか。

▲以前は京橋駅の北西部、東野田町に大阪大学工学部があった(クリックで拡大)

今和泉:
いや、周辺に大学があるわけではないので、下北沢よりはもう少しおじさん向けな気がしますね。でも、若者の街になりそうな要素もあったんですよ。京橋駅の北西部に大阪大学工学部がありました。

少年B:
今は高校とNTT西の研修センターになってますね。

今和泉:
他の学部と同様、敷地が狭かったこともあり、1970年に吹田市に移転しました。

少年B:
前回話したところですね。大阪だと大学が郊外に移るという。

かつての巨大工場は今

▲鯰江川周辺の変化(クリックで拡大)

今和泉:
京阪の南側を見てみると、鯰江川(なまずえがわ)が埋め立てられて、一方通行の道路になっています。

少年B:
なんか、大阪って一方通行多くないですか? 子どものころ住んでた街に久々に行ってみたら、一方通行だらけでびっくりしました。地図を見ててもけっこう多いですよね。

今和泉:
東京都心部も東側は一方通行が多いので、どちらかというと「旧城下町あるある」かもしれません。それより、鯰江川の跡の道路、右側通行みたいになっていて、これは異例ですよね。実際には北側の道路と南側の道路の間には建物があり、高さも違うので、全く別の道路ですが、地図だけ見ると少し驚きます。

他にも変化を見ていくと、京阪線の野田橋駅、片町線の片町駅は廃止され、代わりにJR東西線の大阪城北詰駅ができました。あとは貨物線の淀川駅がなくなりましたね。

▲桜ノ宮駅の北側にあった淀川貨物駅は住宅地(桜ノ宮リバーシティ)として再開発され、市電の都島車庫は総合医療センターになった(クリックで拡大)

少年B:
今では再開発されて、総合医療センターができてますね。

今和泉:
それは隣の市電車庫の跡地になりますかね。現在の桜宮リバーシティが淀川駅の跡地でしょう。そうそう、大阪は市電が全廃されてるんですよね。

少年B:
市電は地下鉄谷町線が代替になったんでしょうか。

今和泉:
そうですと言いたいんですが、バスも多いので、地下鉄とバスというのが正しいでしょうね。都島駅から北の高倉町方面にもバスが出ています。

少年B:
1960年の地図でも市電と並行して描かれてますもんね。歴史の古い路線だ。

今和泉:
高倉町の左側、友渕町(1960年の地図では友淵町)もすごいですよ。大規模な鐘淵紡績(かねがふちぼうせき、後のカネボウ)の工場があります。これも現在は再開発の末、ベルパークシティというマンション群とベルファ都島ショッピングセンターになりました。

▲鐘淵紡績の工場の跡地は、大規模な宅地開発がなされ、ベルパークシティとなった(クリックで拡大)

少年B:
なるほど、鐘紡だからベルってことですね!

今和泉:
そういうことです。

友渕町の北側には城北運河がありますが、今は阪神高速が通っています。これも運河を埋め立てたのかと思いきや、こちらは川の上に阪神高速道路を通しています。

少年B:
日本橋みたいな感じだ。大阪、色んなパターンがあっておもしろいですね……!

人々の暮らしを想像しやすい街

今回は大阪市の後編として、此花区・大正区・都島区にスポットを当てて、街の変化を見てきました。昭文社創業時に作られた1960年の地図を見ながら、街の様子を比べてみると、大きく変わったところもあれば、今でもなごりが残っているところもあります。

時代とともに表情を変えていく街は、土地の用途や施設、時には地形すらも大きく変化していきます。そのなかで、60年以上前と変わらない渡船の姿や、形を変えつつも市電と同じルートを走り続けるバスの存在を地図の上から読み解くことができました。

大阪市は、そんな人々の暮らしを想像しやすい街のような気がしました。

今和泉さんの地図話はまだまだ続きます。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

【筆者】少年B

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1985年生まれのフリーライター。地図自体に造詣が深いわけではないが、地図を見ながら「こことここの間に道路ができたら便利だなぁ」などと妄想を膨らませるのが趣味のひとつ。(Twitter:@raira21

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