大阪駅西側と「うめきた」の変化
今和泉:
さて、次は駅の西側を見てみましょう。
少年B:
船溜がありますね。大阪駅の近くにこんなものがあるなんて。
今和泉:
その脇には梅田荷物扱所、大阪鉄道貨物、郵便局、そして駅が並んでいます。いかに水運が盛んだったかがわかりますね。
少年B:
これは大阪という地域性から来るものなんですか。それとも時代?
今和泉:
時代ですね。1960年だと、東京でも秋葉原や汐留(新橋)、品川、隅田川(南千住)は水路が駅前まで来ています。
少年B:
そうでしたっけ……。汐留と品川は港区でやったけど、いまいちそのイメージがなかったです。
今和泉:
あれは1968年の地図でしたしね。確かに60年代ではありますが、ちょっと時代が違う印象です。
少年B:
わずか8年でそんなに違うんだ。
今和泉:
その間に東京オリンピックがありますからねぇ……。新幹線もできたし、時代が大きく変わった8年ですね。
今和泉:
ただ、大阪駅は貨物駅、梅田北ヤードと呼ばれる地区があるのが大きいです。東京でいえば、田町電車区跡地で再開発中の高輪ゲートウェイ駅周辺と近いか、それ以上の再開発でしょう。
それが新宿駅のような、商業的にも中心地で、複数の私鉄が集まるターミナル駅のすぐ横で行われている、ということです。1980年代の、都庁をはじめとした西新宿の再開発と近い位置付けでしょうか。
少年B:
大阪駅、要素が盛り盛りですね。
今和泉:
そんな梅田、大阪駅の変化はもっと前から始まっていて、船溜(ふなだまり)はこの2年後、1962年に埋められたようです。その後貨物駅は縮小され、2000年前後にビジネス街(オオサカガーデンシティ)になりました。大阪中央郵便局は残ってましたが、今は再開発中。2024年にJPタワーとKITTE OSAKAが開業予定です。
梅田北ヤードには2010年代前半まで梅田貨物駅の線路がありました。大阪駅の北側、今やヨドバシカメラが駅前のランドマークですが、これは元大阪鉄道管理局の跡地です。その後初代JR西日本の本社ビルになりましたが、こちらも名建築でした。
少年B:
今話題の「うめきた」地区ですね。大阪府には1995年まで住んでたんですが、大阪市外だったこともあって、あんまり記憶がないなぁ……。駅の南側についてはどうですか?
今和泉:
駅前のビルは2000年代以降、激動の変化を迎えます。JR駅はリニューアルで大幅に印象が変わり、ヨーロッパのような印象になりましたよね。
次いで阪急百貨店、阪神百貨店が一気に建て替わり、綺麗になりました。2000年代に入ってから、梅田にはたびたび訪れていますが、阪急方面への連絡通路は毎回道が変わってるイメージです。
少年B:
そんな状況だったんですね。去年の秋に行ったときはすごく綺麗でわかりやすかったですよ。ただ、地下街はマジで迷宮でした……。新宿よりもヤバいかも。
大阪の街中には大学がない
今和泉:
大阪で特徴的なのは、街中に大学が少ないことです。大阪と言えば大阪大学が思い浮かびますが、名前の割に郊外にあります。
少年B:
阪急宝塚線のイメージですね。
今和泉:
石橋阪大前にある豊中キャンパスですね。他にも吹田キャンパスと箕面キャンパスがあります。
少年B:
言われてみれば、どこも郊外ですよね。何ででしょう。
今和泉:
大阪は城下町ですが、商人の街で、武家地が少なかったんですよね。全国的に元武家地が官有地になって、役所や大学が置かれるんですが、そういう広い官有地が少なかったんです。
少年B:
なるほど、大学を作るには大きな敷地が必要ですもんね……。
今和泉:
大阪駅からひと駅東、天満駅の近くに大阪大学の文字が見えます。1960年の地図を見ると、扇町公園の隣に大阪市立大学の理工学部がありました。今は大阪市南部の杉本町に移転し、跡地は天満中学校になっています。
大阪市立大は2022年に大阪府立大学と統合し、大阪公立大学になりました。今後は森ノ宮に戻ってくる予定ですが、その他の大学もほとんど郊外です。
少年B:
森ノ宮、確か新駅を作る予定がありますよね。公立大の学生もターゲットなのかな。
今和泉:
公立大は学生数が多いので、一部の学部が戻ってくるだけでも、雰囲気が変わるかもしれませんね。
ちなみに、大阪大学もこの頃は中心部にキャンパスがあったんですよ。医学部、歯学部、理学部、そして大学の本部は中之島(当時の常安町、現在の中之島四丁目)にありました。大学が移転した後も、付属病院は最後まで残っていました。
少年B:
ほんとだ、地図の左下に歯科部、本部、理工学部の文字が見えます。
今和泉:
理学部は1964年~65年に豊中に、医学部は93年に吹田に移転しました。もっと昔は隣の玉江町(現在の中之島五丁目)にもキャンパスがありましたが、40年近く前の1921年に移転しました。
少年B:
都心部にあった狭いキャンパスを、移転して広げた感じなんですかね。
今和泉:
そうですね、文系は最初から豊中だったっぽいですけど。そんなわけで、かつては大阪も大学のある町だったんです。今はサテライトキャンパスはあるけど、学生が多いわけではないという。
少年B:
なるほど……。
今和泉:
さて、地図の右側に視点を移すと、国道1号線の一部を拡幅中です。その南、天満天神の周辺は町の割り方が細かいです。
少年B:
河内町に遊園地がありますよ。
今和泉:
この遊園地は、お寺の跡を公園にしたっぽいですね。興正寺がその少し東にあります。このあたりは天満天神の門前町として栄えた場所です。
少年B:
国道1号の北側にお寺が連なってる場所がありますが、これは何ですか?
今和泉:
これは城下町でよく見られる「寺社地」です。複数のお寺が連なってるところまでが町だったのでは? という気がしますね。
東淀川区はターミナルに
少年B:
続いては、東淀川区を見ていきましょうか。
今和泉:
1960年なのがミソですね。この頃はまだ郊外だったんですよ。このあと大きな変化が起きます。
少年B:
と、いうと……?
今和泉:
関西の一大拠点のひとつ、新大阪駅がこの頃はないんです。
少年B:
あ、ここ新大阪のあたりだったんですね!? 新大阪駅はどこにできたんでしょう。
今和泉:
宮原操車場の付け根ですね。2023年と見比べてみましょう。
少年B:
北側を流れる川がなくなってますね。
今和泉:
埋め立ててるんでしょうね。東淀川高校の南側、川に挟まれた区域は恐らく水田だと思いますが、今はメルパルクなどのビジネスホテルが立ち並ぶエリアになっています。
少年B:
水田がビジネス街になっちゃったんだ。華麗な変化を遂げましたね。
今和泉:
この時代はまだ新御堂筋も作りかけなんですね。南側だけあります。
少年B:
阪急の南方駅(地下鉄西中島南方駅)のところだけですね。橋もかかってない。
今和泉:
この頃はまだ阪急も京阪神急行電鉄なんですね。阪急電鉄に名前が変わったのは1967年です。
少年B:
ほんとだ。見知った路線の名前が違うと不思議な感じがしますね。あとは十三駅が「じうそう」になってます。
今和泉:
戦後ですが、まだ戦前の旧仮名遣いの表記が残っていたのでしょうか。十三駅周辺は、商店街が広がる下町で、北西に武田薬品の工場があるところも含めて現在も変わりませんが、水路が国道になっているのが変化したポイントです。
大阪城と中央大通
今和泉:
次は東区にいきましょう。東区は1989年までありましたが、現在は南区と合併して中央区になりました。今は24区ですが、「大阪26区」の時代ですね。ちなみに、昭文社はこの1960年に、大阪市東区で創業しています。
少年B:
東区、我々が4歳のころまではあったんだ。しかしこうして見ると、大阪城はやっぱり存在感がありますね。
今和泉:
今の大阪城は屏風絵などを参考に模擬復興されたもので、1931年に作られました。鉄筋コンクリート造の天守閣としては日本最古のものです。
少年B:
うーん、確かに古いことは古いけど……。新しいような古いような、ですね。
大阪城といえば、子どものころ親に連れられて、ユーミンのコンサートを観に大阪城ホールに行った記憶があります。
今和泉:
大阪城ホールはこの頃、まだ日本鉄線の工場だったようです。さて、個人的には大阪城以上に気になるのが、建設中の道路です。
少年B:
露骨に大きな道路ができようとしてますね。これは何ですか?
今和泉:
現在この場所には、阪神高速13号東大阪線と、中央大通ができています。大阪の東西を貫通する大動脈でもあります。
この頃の農人橋はこんなに小さな橋だったんですね。この頃の農人橋が気になります。風情があったかもしれません。今は大きな交差点とジャンクションがある無機質な風景が広がっています。
少年B:
農人橋詰町の左側だけを見てたら、将来こうなるなんて思えないですね。東側も、官公庁が集まってるなかを道路の予定地が突っ切ってますよ。
今和泉:
ちょうどこの頃、道路の南側にある大阪地方人事院や大阪管区行政監察局、都島区検察庁、大阪赤十字病院のあるあたりでは、難波宮(なにわのみや)の調査が行われています。
少年B:
難波宮?
今和泉:
645年から793年まで、約150年ものあいだ都だった場所です。日本初の首都でもあり、日本という国号や元号の使用が始まった場所でもあるんですよ。
少年B:
大阪出身なのに全然知らなかった。そんな場所がこんなところにあったんですね!
今和泉:
今は難波宮跡公園として整備されています。土台があるだけなので、観光地にはならないと思いますが、想いを馳せてみるのもいいと思いますよ。
少年B:
中央大通の予定地に沿って東に目を向けると、日生球場がありますね。昔の近鉄バファローズの本拠地ですね。こんなところにあったんだ。
今和泉:
現在、その跡地は「もりのみやキューズモールBASE」になっています。球場の跡地なので、ベース(塁)の名前を入れたんですね。私も行きましたが、トラックがあってランニングできる、ちょっとスポーティーなショッピングモールです。
中央大通の予定地は東側だけしか描かれていませんが、このあと農人橋の向こうも整備され、区画を1列潰して道路ができています。
少年B:
シムシティみたいな開発ですね。反対は起きなかったのかな。
今和泉:
とんでもないことだと思いますが、この時代だからこそできたんでしょうね。六本木ヒルズや麻布台ヒルズのように、今でも大規模開発はだいぶ大変だと思いますよ。
戦後の焼け野原だった頃であればすぐ道路はできたでしょうけど、戦後ある程度復興してきてから、建物がみっちり建ってからの道路整備だったと思うので、難しそうですよね。
製薬会社が集う道修町
今和泉:
それから、地図の左上にある道修町(どしょうまち)を見てみてください。
少年B:
えーっと……。なんか製薬会社だらけじゃないですか?
今和泉:
それは現在もそうで、塩野義製薬、田辺三菱製薬、小野薬品工業などがこの地に残っています。世界的に有名な製薬会社が至近距離に集まってるのって、おもしろくないですか?
少年B:
ですね! でも、何でそんなことが起きるんですか?
今和泉:
城下町では、同じ業種が集まるというか、集めされられる傾向にあるんですよ。ほら、よく呉服町とか問屋町みたいな言葉を聞きませんか? 江戸時代に呉服屋や問屋が集中していたなごりですね。
少年B:
さっきの、寺社が並んでるのと似た感じですか?
今和泉:
あー! それもそうですが、それのさらに細かい区分けです。江戸時代までは、士農工商の身分ごとに住むエリアが決められていたんですよ。寺社はここ、町人はここ、武士はここ、みたいな感じで。
その町人の街の中で呉服屋はこのエリア、問屋はこのエリア、という具合で、寺社と比べると小カテゴリな感じですね。
少年B:
そういう違いなんだ。
今和泉:
何屋さんが多い、みたいなことはよくあるんですが、薬屋が集中するのは珍しいし、ましてやひとつの街から世界規模の会社や国内大手が複数出るのは本当に珍しいケースですね。
少年B:
へー! おもしろいですね。問屋町とか鍛冶屋町とか、そういう地名は他にもたくさんあるのに。
今和泉:
まぁ、鍛冶屋町があっても、複数の鍛冶屋さんが近代以降大企業になって成長するケースってあんまりないですよね。他の例だと、呉服町が発展したコレド日本橋の周辺がありますが、そこぐらいじゃないですかね……。
少年B:
なるほど……。今の道修町はどんな感じなんですか?
今和泉:
都心回帰の流れもあって、マンションが増えているせいか、人口がすごく増えてます。
あとは道修町の東端にある南北の通り、堺筋沿いもビジネス街です。このあたりは歴史的に古い、メインストリートです。
少年B:
メインストリートというと御堂筋のイメージがあるけど、堺筋もそうなんですね。
今和泉:
御堂筋は1920〜30年代にできた新しい通りなんですが、その前は堺筋のほうがメインストリートでした。道修町から少し北に進むと三越もあります。
少年B:
ほんとだ! これはだいぶすごい場所だぞ、という気持ちになりますね。
今和泉:
さらに北にある、北浜には大阪証券取引所があります。関東ではあまり知名度がないかもしれませんが、北浜は大阪では超一等地のひとつです。
今は虎ノ門ヒルズに抜かれましたが、ここにあるザ・キタハマ(北浜タワー)は地上54階建て・209mと、日本一高い居住用マンションだったはずです。
少年B:
調べてみたらお値段も高い……お後がよろしいようで。
昭文社最古の地図で見る大阪市
今回は大阪駅、新大阪駅、大阪城、北浜とその周辺、いわば大阪市北部における中心地の変化を追いました。大阪は昭文社発祥の地ということもあり、今までの連載以上に歴史の古い、昭文社創設期に作られた地図が出てきました。
文化も違えば、時代も違う。製薬会社が集まっている道修町や、大阪駅前の船溜など、これまで見ることのなかった風景が、地図の中には記されていました。大阪に行った際は、このようなかつて当たり前だった風景を想像してみるのもおもしろいかもしれません。
今和泉さんの地図話はまだまだ続きます。
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