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当時から発展していた下総中山

今和泉:
次は下総中山駅に注目してみましょう。

少年B:
通過したことはありますが、西船橋と本八幡に挟まれてるので、ちょっと地味な駅ですね。あんまり印象がないです。

今和泉:
まぁそう思うかもしれませんが、1967年の地図を見てください。西船橋よりも発展してるような気がしませんか?

▲1967年時点での下総中山駅と西船橋駅の比較

少年B:
うーん……? 確かに、工場や銀行なんかがあるぶん、ちょっと栄えてるような気がしますね。

今和泉:
銀行は西船橋にもありますが、下総中山駅と京成中山駅の間は道路が細かく描かれているのが分かります。つまり、宅地化されているということです。

少年B:
なるほど……! 西船橋と比べると一目瞭然です。でも、何で下総中山のほうが開発が進んでいたんでしょう。京成と乗り換えるなら、西船橋と葛飾駅でもいいような気がします。……あれ? 葛飾駅?

今和泉:
おっ、いいところに気付きましたね。葛飾駅は1987年に京成西船駅に変わりました。「何で葛飾?」って顔をしていますね。

▲黄色い範囲がもともとの「葛飾町」の範囲。南口は今でも変わらないが、北口の住所は「西船」に変わった。それでも葛飾神社、葛飾小学校、葛飾公民館等は残る。

少年B:
ええと、これは江東区のときに聞いた「葛飾、昔は広かった問題」ですか?

今和泉:
確かに、ここも旧東葛飾郡ではありますが、大葛飾の中心地というわけではありません。ここの住所が船橋市葛飾町だったんです。

少年B:
駅名は葛飾町由来だけど、葛飾町があったのは東葛飾郡ってことですね。ややこしいな。

今和泉:
1967年に西船橋4丁目に変わったので、ちょうどこの地図では地名が変わったばかりですね。今でも京成西船駅の北に葛飾小や葛飾神社、葛飾公民館などがあり、葛飾町のなごりが残ってます。

ところで、下総中山も西船橋ももともと似たような小さい駅だったのに、どうしてこんなに差がついたのか、という話でしたね。共通点は、JR総武線と京成千葉線が並行していて、両線ともそれぞれ駅があります。

少年B:
西船橋と京成西船よりは、下総中山と京成中山のほうが若干近いかなとも思いますが、乗り換え距離はほぼ誤差じゃないですか。

今和泉:
このあたりの総武線と京成千葉線は乗り換えるもんじゃないんです。津田沼〜千葉間はほとんど似たようなところを通っていて、完全に競合しています。そのため、途中駅同士で乗り換える人はほとんどいません。

少年B:
そう言われてみると確かに……。わざわざ下総中山や西船橋で乗り換えなくても、都心側の日暮里や上野で乗り換えればいいんですもんね。

今和泉:
船橋から先は両線のルートが変わるので、船橋・京成船橋間では乗り換える人がたくさんいます。でも、このあたりでは乗り換える必要性がないですね。

つまり、下総中山が発展した理由には、他の要因があるということです。京成中山の北側、厳密には市川市ですが、法華経寺というお寺がありますよね。下総中山駅から、一直線に道路が伸びています。

▲ピンク色の点線で示したところが、下総中山駅から京成中山駅を経て法華経寺までの参道で、新旧さまざまな店舗があり、行き交う人で賑わっている。

少年B:
と、いうことは、このお寺が発展の理由???

今和泉:
お寺があったから、古くから街が発展したんでしょうね。どちらの駅も法華経寺に行く人が行き来したことでしょう。下総中山駅から法華経寺に向かう参道の途中に、たまたま京成中山駅があったので、両駅の間も活性化したんだと思います。

少年B:
法華経寺が強いんだ。

今和泉:
法華経寺は今でも大きなお寺で、遠くから来る人も多かったと思います。でも、西船橋にはそういう遠方から人を集めるスポットがありませんよね。その歴史の差だと思います。

少年B:
1967年の西船橋、だいぶ農地が広がってますもんねぇ。

今和泉:
逆に言えば、そんな状況だから小金線、もとい武蔵野線を作ることができたとも言えます。宅地化されてたら、線路を引くのも一苦労ですからね。

少年B:
なるほど……。元々は小さな駅だったからこそ、今の西船橋があるんですね。

日本有数の観光地だった船橋ヘルスセンター

▲船橋ヘルスセンターは温泉、劇場、アイススケート場の他、滑走路もあった

少年B:
東側に目を移すと、1967年には「センター競馬場前」という駅がありますね。センター競馬……?

今和泉:
船橋ヘルスセンタと競馬場の前の駅ということです。花輪→京成花輪→船橋競馬場前→センター競馬場前→船橋競馬場(現在)と、駅名がたびたび変わった駅です。

船橋ヘルスセンターのメインは温泉付き健康ランドですが、遊園地にスケート場、劇場にレース場、飛行場などを併設した、盛り盛りの総合レジャー施設だったんです。

少年B:
コロコロコミックに出てくる金持ち同級生が作った遊園地か何か???

今和泉:
当時は日本有数の観光地だったみたいですよ。ローマをイメージした大ローマ風呂。大広間には舞台があり、温泉プールはもちろん、海岸にはゴールデンビーチ……。当時は東洋一のレジャースポットとまで呼ばれていました。

観光バスの駐車場はありえないぐらい広いですし、注目すべきは滑走路です。

少年B:
滑走路!? 元は軍の施設とか……?

今和泉:
私もそうかと思いましたが、ヘルスセンターが遊覧飛行機用に作った飛行場のようです。1969年に閉鎖されていますが、1969年の地図にもはっきり描かれています。

1969年の地図のほうが全体のディテールがはっきり見えますね。ジェットコースターらしきものも見えるし、サーキットの形もなんとなくわかる。

▲船橋港周辺、東側はこの後大きく変わるが、西側は現在もこの様相が続く

少年B:
うーん、すごい時代だ……。普通、たとえ遊園地を作ったとして、飛行場作ろうとは思わなくないですか? しかもメインは健康ランドという。

今和泉:
いまの感覚からするとびっくりしますよね。ところが、この船橋ヘルスセンターは1977年5月に閉館します。

少年B:
オープンが1955年11月だから、たった21年半で閉館しちゃったんだ。ディズニーランドは去年40周年だったのに、その半分ぐらいですね。意外とあっけないなぁ。

今和泉:
1970年代になってレジャーの多様化によって来場者数が減少、さらに地盤沈下の影響で、温泉のくみ上げが差し止められたことが決定打になったようです。

少年B:
レジャーの多様化?

今和泉:
ヘルスセンターのウリは「首都圏にこんなに近い海外・非日常」ですよね。でも、当時は景気も上昇していたし、1964年には海外旅行が自由化されました。

つまり、近場で済ませなくても、本物の温泉地や海外に行けるようになったんです。だから、この頃の5年ってだいぶ違うと思いますよ。15年が立つと目新しさもなくなるし、話題性を持っていかれたんじゃないかと。

少年B:
あー、解禁されて5年も経つと、海外旅行に行く人もだいぶ増えてきそうですよね。

▲1969年(左)と1986年(右)の船橋ヘルスセンター周辺の変化

今和泉:
さて、そんなわけで船橋ヘルスセンターは閉園してしまったわけですが、その前に1969年と1986年の地図を見比べてください。滑走路と観光バス駐車場の間に点線の鉄道計画線(臨海線)がありますよね。この他にも道路ができてきます。

少年B:
東関東自動車道と湾岸道路ですか??? 点線からイメージしてたものの10倍デカい。

今和泉:
そうです。いきなり交通網がダイナミックになりますよね。そして1981年、船橋ヘルスセンターの跡地にはららぽーとができます。滑走路はゴルフコースに変貌を遂げ、この場所はここから、さらなる激変を迎えます。

船橋から生まれた、ららぽーととIKEA

▲1999年(左)と2003年(右)のららぽーと周辺の変化

今和泉:同じ場所の90年代から2000年代にかけての地図です。デジタル立体マップです。グラフィックが圧巻ですね。色々とツッコミどころはあると思うんですが、どこから行きましょうか。

少年B:
えっ、ららぽーとって80年代からあったんですか!? ららぽーと、2000年代後半から2010年代のイメージでした。

自分が横浜に住んでいたとき、近所にららぽーと横浜ができたんですよ。そのあと新三郷や海老名、平塚とどんどんできていったような……。たしか、横浜の前に船橋に1号店があったとは聞いてましたが。

今和泉:
なるほど、三井不動産によるイメチェン作戦が成功してますね……。船橋の写真はありませんが、志木の写真は持っています。昔のららぽーとはこんな感じでした。

1982〜2005年まで営業していたららぽーと志木(2006年、今和泉撮影)

少年B:
ええっ、ららぽーとってこんなんだったんだ!? なんかロゴマークに時代を感じますね……!

今和泉:
現在のららぽーとTOKYO-BAY(開店当初はららぽーと船橋)は1981年、三井不動産初のショッピングセンターとしてオープンしました。当時はそごうとダイエーがテナントとして共存する構成で、店舗面積が非常に広かったこともあり、話題を呼びました。横浜ができたのはイメチェン後ですね。

少年B:
地図を見たら、ららぽーとゴルフコースもある……!

今和泉:
ゴルフコースには巨大迷路もあったそうです。北側にはららぽーと劇場もあるし、ヘルスセンターのなごりを感じますね。というのも、ヘルスセンターは最終的には三井不動産運営でした。

そして、1993年には巨大迷路の跡地にららぽーとスキードームSSAWS(ザウス)が誕生しました。

編集部H:
私、行ったことあります。8月の炎天下、熱アツの車の屋根にスキー板載せて……。館内は氷点下で雪が舞っていました。スキーブームもあって特にオフシーズンはけっこう賑わっていた記憶があります。

今和泉:
実際に行ったことのある人が身近にいた!!!

少年B:
1993年って、我々2人はまだ8歳ですからねぇ……。貴重な体験談です。それにしても、まさかスキー場をつくるとは。

今和泉:
これはレジャーの多様化の象徴ともいえるでしょう。船橋ヘルスセンターという疑似ローマの後にできたのが疑似雪国という。

少年B:
なんというか、疑似的な非日常をつくるという方向性だけは変わってない気がしますね。

今和泉:
2002年にSSAWSの営業が終了します。こちらはわずか9年での閉館です。さきほどの2003年の地図では、SSAWS跡の建物が灰色で描かれているのも象徴的ですね。

そして、その後には疑似スウェーデンが来ます。

少年B:
疑似スウェーデン……? わかった、IKEAだ!!!

今和泉:
はい。2006年、この跡地に日本初のIKEAが開店します。疑似ではなく本当のスウェーデン企業なんですが、「現地に行くことなく、本場スウェーデンの雰囲気を味わえるお店」と言う点では地続きな気がしますね。

▲2003年(左)と2023年(右)のららぽーと周辺の変化

少年B:
ららぽーととIKEA、どっちもその後横浜に来て、すぐ近くで営業してるって共通点もありますね。横浜時代によく通ってました。

今和泉:
そう考えるとおもしろいですね。

南船橋は非日常から日常へ

今和泉:
おもしろい点はもうひとつあります。それは、それまで非日常のレジャーだったものが、日常寄りになってきたことです。

少年B:
あっ、船橋ヘルスセンターは遊びに行く場所だったのに対して、ららぽーとやIKEAは日常使いのお店という……!

今和泉:
どちらかというと、日常と非日常の間といった感じでしょうね。ららぽーとやIKEAって、ハレとケの両方の要素があると思いませんか? 売ってるものは一般的なものだったり、家具だったりと日常的なものだけど、場所としてはちょっとハレの要素があるというか。

少年B:
あー、わかります。ちょっとテンションが上がるし、家族そろって行くような場所ですよね。失礼かもですが、イトーヨーカドーやダイエー的な感じではない。

今和泉:
ダイエーこそその両立を狙っていたんですが……。その話は置いといて、ららぽーともIKEAもこの場所に国内初出店した、という共通点はおもしろいですよね。ちなみに、IKEAは2024年で18年周年を迎えるので、船橋ヘルスセンターの21年に迫ってきました。

少年B:
それだけ長く定着しているというか、時代の変化が止まったというか……。

今和泉:
ちなみに、元SSAWSの土地のうち、IKEAの南側は三井不動産が開発したマンションになりました。

少年B:
いま調べてみたら、中古で5000万オーバーなんですね。すごい。

今和泉:
ゴールデンビーチは埋め立てられ、オートレース場はテニスクラブを経て三井不動産グループが展開する物流施設MFLPへと変わりました。MFLPは羽田空港付近と同じような施設です。

少年B:
あ、羽田にあった大規模な物流施設ですね。

今和泉:
そうです。観光地からネット時代に必要な物流施設、家具屋さん、マンションという流れですが、これもハレとケって感じがしますよね。

少年B:
うーん、夢からの現実というか……。

船橋には港もある

▲1967年(左)と2023年(右)の船橋港周辺の変化

少年B:
船橋ヘルスセンターの向かい、西側の地図ですね。「船橋港」の文字と、鉄道計画線の「臨海線」の文字が見えます。

今和泉:
これは「りんかい線」ではなく、現在の京葉線です。それから、漁業組合や佃煮屋さんがありますよね。

少年B:
漁業組合なんてあったんですか!?

今和泉:
少し移転しましたが、それが今でもあるんですよ。ただ、今は漁港のイメージはないですよね。このあたりも埋立地ですが、この後、さらに沖合が埋め立てられていきます。

▲1969年の地図に記された漁業保証地

少年B:
「漁業保証地」の文字が見えますね。

今和泉:
漁業補償地は、漁業ができなくなった代わりに与えられる土地ですが、1969年には漁業権の全面放棄が決まります。埋め立てと工業化が進み、漁業権を失うというのは、漁民にとっては一大事ですよね。

少年B:
なるほど……。確かに一大事ですね。

今和泉:
船橋港はもともと幕府に献上する魚介類の漁場でした。漁港としての歴史がこのとき揺らぎます。

少年B:
そうすると、漁業はもうできなくなったんでしょうか。なんで漁協があるんだろう?

今和泉:
このあと、保証金の一部を返却し、漁業権を留保したようです。漁業への強い意志が感じられますよね。船橋市のホームページの漁獲高を見ても、漁業は現役だということが分かります。なかでもスズキの漁獲高は日本一、他にも海苔の養殖は今でも盛んなようで、近年は漁業が巻き返しています。

船橋港を見てみると、漁業と工業、観光の試行錯誤が繰り広げられていた、ということになります。港を見るだけでも大変な昭和史が詰まっています。

船橋市街地の変化とは

▲1969年(左)と2023年(右)の船橋駅周辺の変化

少年B:
市街地はどうですか?

今和泉:
そこまで変化はありません。というよりは、ここまで取り上げてきたところが変化しすぎてた、というのが正しいかもしれません。

船橋駅北口を見ると、1969年には魚市場と工場でしたが、今は東武百貨店になりました。

少年B:
魚市場が百貨店に?

今和泉:
また、2018年に閉店してしまいますが、船橋駅には西武デパートもありました。船橋にも西武と東武があった時代ですね。そこだけ聞くと千葉の池袋ですが、百貨店が強かった時代を思い出します。

▲かつてあった西武船橋店(2006年、今和泉撮影)

少年B:
いいものを買うには百貨店、という時代はありましたもんね。

今和泉:
今はショッピングモール全盛の時代ですが、当時としては、ららぽーとの方が異色だったんですよね。

あとは京成船橋駅が高架化したぐらいですかね。2006年、高架化工事中の写真があります。

▲高架工事中の京成船橋駅(2006年、今和泉撮影)

▲高架工事中の京成船橋駅(2006年、今和泉撮影)

▲高架工事中の京成船橋駅(2006年、今和泉撮影)

少年B:
ポンポン写真が出てくるのがすごい。京成船橋駅ってこんなんだったんですね……。

今和泉:
首都圏郊外でも、中心市街地とショッピングモールのある副都心の駅の組み合わせとして、横浜とみなとみらい、大宮とさいたま新都心、町田と南町田、藤沢と辻堂……とさまざまな組み合わせがあります。船橋は中心市街地は標準的だと思いますが、副都心の南船橋が怒涛でしたね。

ところで、1967年の地図を見ると、北側に変わった形の土地がありませんか?

▲1969年(左)と2023年(右)の通信施設跡周辺の変化

少年B:
武蔵野線の建設予定地に、なんかミステリーサークルみたいなのがあります。これのことですか?

今和泉:
そうです、通信施設跡ですね。これが1986年になると開発されて、公団住宅や公務員住宅、公園等に生まれ変わります。この円形区画のすぐ右下、新船橋駅の近くにも角が丸い長方形の土地がありますね。

▲1969年(左)と2023年(右)の新船橋駅周辺の変化

少年B:
こっちは元工場で、今はイオンモールになってます。駅を挟んで反対側にある旭硝子の工場はマンションになってます。

今和泉:
さきほどの円形区画、行田団地は「公」の要素が強いのに対して、新船橋駅前はイオンモールとマンションということで、民間の色が強めです。です。大型モールがららぽーとのある南船橋だけでなく、新船橋にもあるということで、船橋は近隣の郊外型モールの力が総じて強そうです。

少年B:
西船橋は乗換駅として便利だしなぁ。船橋周辺の駅と街、1駅ごとにそれぞれ性格が変わりますね。

東船橋と津田沼を追う

今和泉:
西船橋、南船橋、新船橋は船橋駅の北にあるので仮に北船橋として、残るは東船橋ですよね。東船橋には何があるのか、気になりませんか?

少年B:
それは確かに。1969年の地図を見ると、駅がないですね……!

▲1969年(左)と2023年(右)の東船橋駅周辺の変化

今和泉:
東船橋駅が完成したのは1981年なので、もうちょっとしてからですね。駅の近くには、サッカーで有名な市立船橋高校がありますが、県立船橋高校も東船橋駅が最寄りです。というわけで東船橋のキモは「高校」でしょう。

少年B:
市船、船橋駅からだいぶ遠いんですね。東船橋駅ができて、生徒たちはさぞ喜んだことでしょう。

今和泉:
他にも、豚屠殺場なんてものがありますね……。ここはいま公園になっているようです。

最後に、津田沼の話もしておきましょうか。津田沼駅の大部分は習志野市ですが、北口はギリ船橋市なんです。かつてあった津田沼PARCOは、建物の中に市境がありました。

▲津田沼駅北口(右上)、「ビート」の字が見える灰色の建物、旧A館内に市境があった。

少年B:
イオン高の原ショッピングセンターの中に京都府と奈良県の県境があるって話は聞いたことがありますが、津田沼にもそんなところがあったんですね……!

津田沼っていうと、「ムカつく電車の行先ランキング」の上位ってイメージですが、ここには何があったんですか?

今和泉:
駅ができる前は、駅付近は西船橋以上に何もないところでした。。

少年B:
えっ、そんなところが何で主要駅になったんでしょう。津田沼止まりもけっこうあるのに。

今和泉:
1967年の地図を見ると、電車区(車庫)がありますよね。操車場があるから、運用上の都合で津田沼発着の電車が多かったりしますが、新京成線との乗換駅、ということもあります。ただ、もともとこの地域の中心地ではありませんでした。そもそも、津田沼は合成地名ですし。

少年B:
合成地名? 大田区が大森と蒲田から1文字ずつ取って名付けられた、みたいなやつですか?

今和泉:
そうです。谷津の「津」と久々田の「田」、鷺沼の「沼」の合成です。津田沼というのも駅ができてからの地名で、後天的に主要駅になったパターンですね。

谷津、鷺沼の町名は今もありますが久々田がないんですよね。今は久々田が「津田沼」になりました。駅名に合わせて町名が変わったんです。

少年B:
なるほど……。今はどうなんですか? PARCOがなくなったと聞くと心配ですが。

今和泉:
PARCOはなくなりましたが、南口の大規模商業施設モリシアは健在です。船橋と異なるのは、この他、駅前(新津田沼駅北側)にイオンモールがあるということです。船橋市外ですが……。

乗降客数は西船橋のほうが多いんですが、西船橋は他社線と乗り換えているだけで駅舎を出てない人も多いと思います。その点、津田沼は純粋に駅を降りて来る人は多いと思います。

少年B:
船橋は市街地が分散してるんだなぁ、というのが伝わってきますね。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

【筆者】少年B

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1985年生まれのフリーライター。地図自体に造詣が深いわけではないが、地図を見ながら「こことここの間に道路ができたら便利だなぁ」などと妄想を膨らませるのが趣味のひとつ。(Twitter:@raira21

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