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玉電車庫の過去、そしてその後
この車庫の誕生が、鉄道の開業と同時期だとすれば、それは1907(明治40)年ということになります。
開業当時は、多摩川の砂利を運搬するのが主目的の鉄道で、当時の社名は「玉川電気軌道」といいました。これが愛称「玉電」の由来です。
開業から少し後の地図を見てみましょう。玉川通りとその上を走る軌道があり、そこから分岐する短い軌道が、読み取れます。ちょうど「氷」の字の下あたりです。
車庫南側の目黒川は未改修で、蛇行しながら流れています。また、周辺には耕地や空き地もあります。当時まだこの辺りは、東京の「郊外」と呼ばれるような土地だったのではないでしょうか。
一気に時代が進み、こちらは玉電が廃止される少し前の空中写真です。画面中央の三角形の区画が、電車車庫です。
車庫東側の広い通りは「山手通り」です。この通りや玉川通りでは、拡幅工事が進められています。ちょうど画面の右上部分では、この2つの通りの立体交差が建設されているようです。
もしかすると、これらの工事は、翌年1964年に控えていた東京オリンピックに向けた、インフラ整備事業のひとつだったのかもしれません。この玉川通りの先には、1964年五輪の競技会場となる予定だった「駒沢陸上競技場」などの施設がありました。
こちらは、玉電廃止後間もない頃の空中写真です。路面電車の車庫は、東急バスの車庫となりました。たくさんのバスが並ぶ様子が見て取れます。前の写真では建設中だった、山手通りと玉川通りとの立体交差も完成していますし、首都高速3号線も開通しています。
そしてその後、この車庫は、大きな転機を迎えることになります。
70メートルの高低差を結ぶ、ユニークな構造のジャンクションへ
2002年、この東急バスの車庫は廃止されます。この場所で、高速道路のジャンクション建設が具体化したためでした。
それは、既存の首都高速3号線と、新設の首都高速中央環状線とを連絡する「大橋ジャンクション(JCT)」でした。
首都高速中央環状線は、都心から放射状に延びる各高速道を連絡し、都心に流入する交通を分散する目的で計画された、全長約50キロの環状道路です。
開通は東側の区間から徐々に進み、残されていたのは西側の山手エリアを縦断する区間でした。当初この区間は、「高架」で計画されていましたが、周辺住民の反対により「地下」に変更されています。
この計画変更の結果、大橋JCTには、「高低差のあるトンネルと高架を円滑に連絡する」という条件が課されることになりました。
しかし、都心部では用地に制約があり、充分なスペースを確保できません。このため、同時にコンパクトな設計が必要でした。
そこで考えだされたのが、4層で2重ループ線を二本重ねる、というユニークな構造でした。
地上3階地下1階の4層に、上下線2本を2重にループさせる道を配置し、高低差70mを結ぶという、他に例を見ないジャンクションが生まれたのです。
大橋JCTは、中央環状新宿線の全通により2010年に部分供用を開始しました。更に2015年には中央環状品川線が開通し、工事は完了します。
この時完成した「山手トンネル」は、全長およそ18キロ。現在日本一長い道路トンネルです。(世界では第二位)
JCT全体は、覆蓋化(シェルター化)され、騒音や排気ガスが周囲に漏れないよう配慮されています。
ちょうど外から見ると、イタリア・ローマのコロッセオ(円形闘技場)のようなデザインが施されていますが、これは周辺の都市景観との調和を意図したものでした。
大橋JCTには、周囲の環境に配慮し、緑の空間が多く設置されています。
ループ線部分には、全国初の「ジャンクション屋上公園」として「目黒天空の庭」が誕生しました。ループ線上にあるので、全体が緩やかな傾斜で細長くなっている点が、大きな特徴です。
また、換気所屋上には、かつての目黒川流域の自然をイメージした「おおはし里の杜」(*注)という再生緑地も設けられました。
ここで目を引くのは、大きな田んぼです。「地上30mにあるたんぼ」というのは、珍しいのではないでしょうか。
(*注)通常非公開ですが、年に数回一般公開されています
現在の玉電車庫跡地周辺
さてこちらは、現在の中目黒駅と旧玉電大橋車庫の周辺です。「C2」とは首都高速中央環状線の路線番号です。この道が、山手通り(緑色の道)の直下を、山手トンネル(ピンクの破線)で通過しています。
旧玉電車庫付近を拡大してみましょう。大橋JCTの一周400mほどのループ線が目を引きます。その東側の一角には、かつて玉電車庫があったことを示す、短いレールのモニュメントが設置されています。
画面の池尻大橋駅は、玉電を継承する形で開通した、東急田園都市線(1977年開通時は新玉川線)の地下駅です.
この駅名は、一見すると「池尻大橋」という名の橋が由来かと思ってしまいますが、周辺の「池尻」と「大橋」という二つの地名を合成した駅名です。
「ちょっと昔」地図と今を比べると見つかる、思いがけない変化と共通項
さて、今回は昭和時代の古地図にあった電車車庫から、目黒区の歴史の一端を紐解いてみました。
電車車庫、バス車庫、高速道路の接続点と、時代と共にこの地の果たした役割は変化していきました。
一方で、一貫して東京の交通に貢献し続けてきた場所だった、という事実も見て取れました。
昔地図と現在を比べてみると、思いがけない変化がある一方で、変わらない共通項が見つかったりします。
みなさんも、「ちょっと昔」の地図から、小さな時間旅行に出かけてみては如何でしょうか。
参考にした主な資料:目黒区HP、首都高速道路HP、国土交通省関東地方整備局HP 『大橋“グリーン”ジャンクションの環境への取組み』(道路新産業開発機構発行「道路行政セミナー」2013.7)
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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。
【筆者】オフィス プラネイロ
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現住所は地図雑学系ライター、本籍は地図実踏調査員。昭文社地図の現地調査歴15年以上の、自称「地理のプロフェッショナル」チームです。これまで調査・取材で訪問した市区町村は、およそ500以上。昭文社刊『ツーリングマップル』『全国鉄道地図帳』等の編集に参加しています。休日は、国内外の廃線、廃鉱など「廃」なものを訪ねる「廃活」、離島をめぐる「島活」中。好きな廃鉱は旧羽幌炭鉱、好きな島はサンブラス諸島(カリブ海)と大久野島。特技は「店で売ってる野菜の産地名⇒県名を当てること」。