更新日: 2023年11月24日
路面電車の車庫から、高速道路の要衝へ 【東京都目黒区】
東京・渋谷から郊外へ向かう玉川通り。ここに路面電車が走っていた頃、目黒区の一角にはその車庫がありました。その地はいくつかの変遷をたどり、他に例の無いユニークな形状の、ある「施設」に生まれ変わりました。昭和時代の地図を旅する「古地図さんぽ」、今回は、その車庫界隈の移り変わりを辿っていきます。
写真:東急玉川線の大橋車庫/PIXTA
目次
1968年の目黒区、中目黒駅から西側の地図です
こちらは、今から半世紀ほど昔、1968年の目黒区地図です。切り取った範囲は、東急東横線中目黒駅とその西側のエリア。目黒区は、武蔵野台地東南部に位置し、1932年に東京市に編入され誕生しました。その中心エリアが、この中目黒駅周辺です。実は、山手線目黒駅があるのは、目黒区ではありません。隣の品川区です。
地図の左側を斜めに走るグレーの道は、未開通だった「首都高速道路3号線」です。その直下には「玉川通り」が走っています。玉川通りは、渋谷から二子玉川を経て、神奈川県に入ると「厚木(大山)街道」となる幹線道路です。
地図では、このように「高速道路3号線計画線」と表記されています。この首都高速3号線用賀~渋谷間が、東名高速道路と接続する形で開通するのは、1971年のことでした。
ちなみに、この当時「目黒区役所」は、東横線祐天寺駅と学芸大学駅のちょうど中間辺りにありました。
現在、区役所は中目黒駅近くに移転(2003年)しています。1968年の地図では、その場所は「千代田生命本社」となっています。
初めの地図に戻りましょう。高速道路計画線の脇に「玉電車庫」という文字を見つけました。
「玉電」とは、当時の「東急玉川線」の愛称です。玉川線は、その大部分の区間で道路上を走る路面電車で、渋谷~二子玉川園(現二子玉川)間を結んでいました。
その車両基地が、この東急大橋車庫でした。南側を流れる川は目黒川。それを跨ぐ玉川通りの橋は「大橋」と呼ばれ、その上には玉電「大橋」停留所があります。
「玉川線」は、この地図が刊行された翌年1969年5月に、廃止となります。この路線を継承する形で、地下鉄道の建設が具体化したためです。
そうして誕生したのが、1977年開通の東急「新玉川線」(現田園都市線)でした。
では、この車庫跡地は、その後どうなったのでしょうか。早速たどってみましょう。
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【筆者】オフィス プラネイロ
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現住所は地図雑学系ライター、本籍は地図実踏調査員。昭文社地図の現地調査歴15年以上の、自称「地理のプロフェッショナル」チームです。これまで調査・取材で訪問した市区町村は、およそ500以上。昭文社刊『ツーリングマップル』『全国鉄道地図帳』等の編集に参加しています。休日は、国内外の廃線、廃鉱など「廃」なものを訪ねる「廃活」、離島をめぐる「島活」中。好きな廃鉱は旧羽幌炭鉱、好きな島はサンブラス諸島(カリブ海)と大久野島。特技は「店で売ってる野菜の産地名⇒県名を当てること」。