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大泉学園町の宅地造成地 その誕生の前
こちらの地図は、明治時代後半の大泉学園町付近です。集落もあまり無く、殆どが山林です。
図右上の「大泉村」は1891(明治24)年、埼玉県より東京都に編入されて誕生しています。北側の埼玉県「新倉村」との間には、太い破線で県境が引かれているのがわかります。
この地に、分譲住宅地が誕生したのは、1924(大正13)年のことでした。
開発の前後の地図を並べてみました。何も無かった山林が、およそ15年の間に、整然とした街路で区画された造成地に変身しています。大泉学園駅(当初は東大泉駅)はこの開発にあわせて開業しました。その駅へ向かうため、南へ直線道路が完成しています。
当時は郊外の一農村地帯に過ぎなかったこの地で、何故このような開発が行われたのでしょうか。
大泉学園町 それは学園都市構想の先駆けだった
この開発を行ったのは、現在の西武グループの前身である、箱根土地株式会社(のちの国土計画→コクド)というデベロッパー(開発業者)でした。
ここに、学園を街づくりの核にするという「学園都市」を構想していたのです。
1923(大正12)年に発生した関東大震災により、東京都心にあった高等教育機関は大きな被害を受けました。箱根土地は、これらの被災した学校を、この地に誘致しようと計画していたようです。東京高等師範学校(現・つくば大学の母体)、東京第一師範学校(現・東京学芸大学)などが候補だったそうです。しかし、結局それは実現しませんでした。
一方で、この箱根土地は、大泉とほぼ同時期に「国立学園都市」(現国立市)「小平学園都市」(現小平市)を建設し、学園誘致に成功しています。前者は東京商科大学(現・一橋大学国立キャンパス)、後者は東京商科大学予科(現・一橋大学小平キャンパス)を誘致したのです。
地図を見ると、大泉、国立、小平の3つの学園都市は、長方形の区画がよく似ています。一方で、国立、小平は鉄道駅に隣接していますが、大泉は離れています。
この点から勝手な想像ですが、大泉への学園誘致の目論見が外れたのは、鉄道駅から遠く学校側に敬遠された、という一因があったのかもしれません。
誘致を断念してからも、大泉学園という町名は残りました。
「学園不在の学園町」が生まれたのには、このような逸話があったのです。
大泉学園町 幻の学園都市のその後
話を大泉学園町の造成地に戻しましょう。
整地された分譲地は、坪10円で売り出されそうです。芸能人を招いてのショーを行うなど、熱心に宣伝を行ったそうですが、売れ行きはいまひとつだったようです。駅から少々遠かったのがその理由かもしれません。そのため、当時は駅まで乗合馬車が運行されていたといいます。
こちらは、戦後間もない頃の空中写真です。場所は現在の大泉学園郵便局(大泉学園6丁目)付近。分譲開始から20年程経過していますが、ほとんど家がありません。ちょっと分譲住宅地とは思えない風景です。
中央の広い道路が並木道になっているのがお分かりでしょうか。この道は現在の大泉学園通り。昭和の初めに風致地区協会が結成され、沿道に桜が植えられました。
やがて、時代が経過し高度成長期の頃になると、状況は一変します。
東京への人口流入が進み、この郊外の街は、区内有数の住宅地として次第に発展していきます。風致地区協会によって、良好な住環境が守り続けられたのも、要因だったかもしれません。その頃の写真を見ると、空き地はあるものの、かなり住宅が建っているのが分かります。
現在の大泉学園町と将来 鉄道空白地帯に大きな変化?
さてこちらは、現在の大泉学園町とその周辺です。
冒頭の地図からの大きな変化は、関越自動車道が開通していることでしょう。隣の大泉町には、外環道(東京外環自動車道)とのジャンクションやインターチェンジが完成しています。「大泉」は、ドライバーにはおなじみの地名ではないでしょうか。
もう一図お見せしましょう。上記の空中写真と同じ、大泉学園郵便局付近です。桜が植えられた通り沿いには、多くの店が名を連ねています
そんな一角に「風致地区公園」があるのがおわかりでしょうか。先人たちが町の景観を守り続けてきた歴史が、この名には刻まれているようです。
このように発展をとげた大泉学園町ですが、更なる発展を予感させる計画が検討されています。
「鉄道空白地帯」のこの街に、鉄道が開通するというのです。
その計画とは、現在光が丘が終点となっている都営大江戸線を、大泉学園町を経由し、埼玉県のJR武蔵野線東所沢駅まで延伸するというもの。それによれば、大泉学園町駅(仮称)から新宿駅までの所要時間は30分ほど。最寄りの西武線駅までバスで出なければならない現状からすれば、驚くべき時間短縮になります。
但し、現時点では着工の具体的な見通しは立っておらず、少し先の話になりそうです。
しかし地下鉄が開通すれば、「駅から少し遠いけど閑静な住宅地」という大泉学園町のイメージは、きっと大きく変わることでしょう。
「違和感のある地名」には逸話あり 「ちょっと昔」地図から時間旅行に出かけてみましょう
さて、今回は昭和時代の古地図から、幻の学園都市、大泉学園町の歴史を紐解いてみました。
名前と町の実際がちょっと一致しない街。その地名をたどると、やはり秘められた誕生の逸話がありました。
そんな「違和感のある地名」の秘密を探りに、みなさんも「ちょっと昔」地図を携えて、小さな時間旅行に出かけてみては如何でしょうか。
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昭文社が刊行してきた都市地図には、道路や鉄道、河川など街の骨格となる情報はもちろん、町丁名や地番、学校・役場などの公共的施設から、住宅団地やアパート、スーパー・デパート、工場や倉庫などの民間施設まで豊富に掲載してきました。収録内容も時代とともに変化するなど、地図はその時々の景観や暮らしが垣間見える「街の記憶」でもあります。
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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。
【筆者】オフィス プラネイロ
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現住所は地図雑学系ライター、本籍は地図実踏調査員。昭文社地図の現地調査歴15年以上の、自称「地理のプロフェッショナル」チームです。これまで調査・取材で訪問した市区町村は、およそ500以上。昭文社刊『ツーリングマップル』『全国鉄道地図帳』等の編集に参加しています。休日は、国内外の廃線、廃鉱など「廃」なものを訪ねる「廃活」、離島をめぐる「島活」中。好きな廃鉱は旧羽幌炭鉱、好きな島はサンブラス諸島(カリブ海)と大久野島。特技は「店で売ってる野菜の産地名⇒県名を当てること」。