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蔵前 文字通り米蔵の前にあった街だった

「蔵前」の地名は、江戸時代、この地に幕府の米蔵があったことに由来します。
江戸時代初めのころ、周辺の丘を削った土砂で隅田川河畔を整地して、幕府により米蔵が建設されます。この蔵の米は、旗本・御家人などの武士の俸禄に充てられただけでなく、非常時用の備蓄米として重要な役割を持っていました。蔵の前にあった街、それが「蔵前」というわけです。

尾張屋板切絵図「東都浅草絵図」(部分)文久元(1861)年/東京都立図書館TOKYOアーカイブより

こちらは、江戸時代の浅草付近の絵地図です。中央の川は隅田川、川べりには「浅草御蔵」の文字があります。これがその米蔵でした。川に面していくつもの船着場が築かれています。当時、米はお金同様の価値があった筈です。もしかすると厳重に管理されていたのかもしれません。

蔵前国技館 その変遷を空中写真でたどる

蔵前国技館 その変遷を空中写真でたどる
絵葉書「大東京 両國國技館」 (1930年頃大日本国民公徳会刊) /東京都立図書館TOKYOアーカイブより

それまで大相撲に使用していたのは、蔵前からは隅田川対岸の両国・京葉道路沿いにあった(旧)両国国技館です。上記の画像がそれです。
美しいドーム型の屋根が特徴で、1909(明治42)年に完成しています。以来、幾度か災害に見舞われますが、その度再建され使用されていました。しかし、第二次世界大戦中には軍に接収され、戦後も占領軍に再び接収されて、長らく使用出来ない時代が続きます。このため、蔵前に国技館の建設が始まるまでの数年は、大相撲は都内のあちこちを転々としながら興行を行うという状態でした。一時期は、明治神宮外苑や日本橋・浜町公園で、大相撲が開催されたこともあったそうです。

1947年空中写真(米軍撮影)/出典:国土地理院

こちらは蔵前国技館の建設が始まる直前、1947(昭和22)年の空中写真です。冒頭の拡大地図とほぼ同じ範囲。建設予定地には目立った構造物は無く、更地のようになっています。周囲を見渡すと、空き地が目立ちます。まだ、終戦から2年。空襲の傷跡が生々しく残っていた時代でした。

工事が着工されたのは1950年頃で、戦後復興期で建設資材の調達が難しい時代でした。神奈川県にあった旧海軍航空隊施設の廃材をかき集めて、少しずつ建設されたそうです。
時代は、力道山のプロレスブーム。人々は街頭に設置されたテレビに夢中になっていた頃です。相撲だけでなく、プロレスをはじめ各種スポーツの試合会場として利用されるという、日本相撲協会の大きな期待を背負って、蔵前国技館は開館となりました。

1956年空中写真(米軍撮影)/出典:国土地理院

こちらは国技館竣工間もない頃の写真です。上空から見ると、周囲の小さな民家の中で、四角形のひと際目立つ建物がお分かりでしょう。戦後10年が経過し、周囲にあった空襲による空き地もかなり減少しているようです。

蔵前国技館では、開館以降、大相撲をはじめプロレス、ボクシングなど、数々の歴史に残る名勝負が繰り広げられました。そのエピソードいくつかをご紹介しましょう。

■この国技館での大相撲で、最も多く優勝したのは横綱・大鵬と横綱・北の湖(共に16回)
■蔵前と両国(新国技館)両方で優勝している唯一の力士は、横綱・千代の富士
■プロボクシング・ファイティング原田が初めて世界王座を獲得した試合が行われた(1962年)
■プロレスのリングは、土俵はそのままに、その上に仮設されていた(新国技館では、土俵は収納することが可能)
■焼き鳥工場が地上にあったため、その香ばしい煙が館内に漂うことがあった(新国技館では、工場は地下にあり、通常煙は漏れない)

ちなみに、現在の国技館には、焼き鳥の煙は全く流れてきません。もし今もそうだったら、焼き鳥は売上を伸ばしていたかも・・・ですが、逆に苦手な方からはクレームが付いてしまうかもしれませんね。

蔵前国技館から両国国技館へ 鮮やかな移転

時は流れ、1984(昭和59)年9月場所を最後に、蔵前国技館はおよそ30年の歴史に幕を閉じます。建物の老朽化と、施設が手狭になったことなどが要因でした。
同時に新国技館が両国に完成し、翌年1985年1月、大相撲は新国技館で最初の場所を迎えます。その土地は、総武線両国駅に隣接する操車場跡地で、当時の国鉄(現JR東日本)から購入したものでした。このプロジェクトには150億円もの費用がかかったのですが、当時の日本相撲協会は無借金でこれを行い、その鮮やかな手腕が話題を呼びました。

1984年国土地理院空中写真より作成

こちらは、ちょうど蔵前国技館が閉鎖された1984年の空中写真です。緑丸は旧国技館跡地、赤丸は蔵前国技館、青丸は両国(新)国技館。3つの新旧国技館は、いずれも近接していることがわかります。写真では、旧国技館跡地は整地され、駐車場として使われているようです。

旧国技館(日大講堂)と両国駅/1975年国土地理院空中写真より

冒頭でも少し触れましたが、旧国技館は、戦後、占領軍に接収されます。やがて解除となり、その後日本大学の所有となります。1983年に解体されるまで「日本大学講堂」として使用されていました。あと一年ほど長く残っていれば、新旧3つの国技館が空から眺められたわけです。もしかしたら地上でも、3館同時に写真に収められる場所があったかもしれません。
残念ながら、それは叶いませんでした。

現在の蔵前国技館跡 近接する3つの新旧国技館

さて、現在の地図を見てみましょう。国技館跡地は東京都に売却され、「東京都下水道局」となっています。
両国駅の横にあるのが、現在の「両国国技館」です。その隣には少々奇抜な形をした「江戸東京博物館」(1993年開館)が建っています。

2022年昭文社地図より作成

こちらは両国駅の南側にあった「旧両国国技館」跡地の現在です。現在は「両国シティコア」という複合施設が建っています。ここでは、かつて大相撲の土俵があった位置がタイルで示されています。

こうして振り返ってみると、大相撲の殿堂「国技館」は、半径500mほどの円という狭い範囲の中で、移転を繰り返してきたことになります。
蔵前、両国国技館の距離は、隅田川を挟んで直線距離で500mほどです。また新旧両国国技館の距離は300mほどです。
それには様々な要因や幸運があったかもしれません。あるいは偶然の結果かもしれません。
しかしそこには、相撲文化の根付いたこの土地への、相撲協会の強い愛着とこだわりが感じられてきます。

地図をたどると、改めて気が付く発見・・・「ちょっと昔」地図から、それを見つけにいきましょう

さて、今回は昭和時代の古地図から、かつて隅田川のそばにあった国技館と、その周辺の歴史を紐解いてみました。
ひとつの施設の移り変わりを地図と写真でたどると、そこで改めて気が付く発見がありました。
みなさんも「ちょっと昔」地図から、それを見つけに時空の旅に出かけてみては如何でしょうか。

【参考とした主な資料:日本相撲協会サイト、台東区役所HP、鹿島建設サイト】

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昭文社が刊行してきた都市地図には、道路や鉄道、河川など街の骨格となる情報はもちろん、町丁名や地番、学校・役場などの公共的施設から、住宅団地やアパート、スーパー・デパート、工場や倉庫などの民間施設まで豊富に掲載してきました。収録内容も時代とともに変化するなど、地図はその時々の景観や暮らしが垣間見える「街の記憶」でもあります。

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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

現住所は地図雑学系ライター、本籍は地図実踏調査員。昭文社地図の現地調査歴15年以上の、自称「地理のプロフェッショナル」チームです。これまで調査・取材で訪問した市区町村は、およそ500以上。昭文社刊『ツーリングマップル』『全国鉄道地図帳』等の編集に参加しています。休日は、国内外の廃線、廃鉱など「廃」なものを訪ねる「廃活」、離島をめぐる「島活」中。好きな廃鉱は旧羽幌炭鉱、好きな島はサンブラス諸島(カリブ海)と大久野島。特技は「店で売ってる野菜の産地名⇒県名を当てること」。

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