二位の尼・平時子(にいのあま・たいらのときこ)
二位の尼・平時子は平清盛の妻、生れた年は不明ですが、三男宗盛の出生が久安3(1147)年といわれているので、少なくとも1130年以前の生れでしょう。壇の浦で入水したときは、60代にさしかかっていたはずです。清盛の長男重盛(しげもり)と次男基盛(もともり)は平時子の実子ではありませんが、三男宗盛(むねもり)以下、知盛(とももり)・重衡(しげひら)という男子と、高倉天皇の中宮となった徳子(とくこ)を生みました。また、時子の腹違いの妹滋子は後白河天皇の后になり建春門院と呼ばれ、高倉天皇を生みました。
娘の徳子は高倉天皇の皇子、言仁親王(後の安徳天皇)を生み、平清盛を中心とする平家一門は、時子と滋子の兄である平時忠(ときただ)が「平家にあらざれば人にあらず」と豪語するほどの権勢を誇りました。時子は二位に叙せられ、清盛が没した養和元(1181)年後は、出家して二位の尼と称しました。一族の都落ちでは、孫の安徳天皇と娘の建礼門院とともに西国にくだりました。源平合戦の折、壇の浦で入水して亡くなった唯一の女性です。
建礼門院徳子(けんれいもんいんとくこ)
平清盛と時子の娘、承安元(1171)年、17歳(15歳説もある)で、高倉天皇の后になりましたが、なかなか皇子誕生がなく、父清盛をいら立たさせます。7年後、24(2)歳で第一皇子言仁を出産して国母となります。
養和元(1181)年、高倉上皇逝去後、建礼門院の院号を宣下されます。寿永2年、平家とともに都落ちして、壇の浦で入水しますが、源氏の兵に捕らえられて帰京。
晩年は洛北大原に住み、出家して一族の菩提を弔いながら過ごしたとされています。そのときのことが、『平家物語』十二巻に続く〈潅頂の巻〉として独立して加えられています。亡くなった年令に関しては諸説があってはっきりしません。
すけ
「すけ」は内侍司の次官のことである。ここで多くの人は、「源のすけ」を源頼朝のことだと読み違えたらしい。頼朝も左兵衛佐(さひょうのすけ)とか佐殿(すけどの)などと呼ばれている。ただし遺書の「すけ」は典侍(てんじ)のことである。
宮廷には女房が仕える内侍司(ないしつかさ)というものがある。内侍司の長官は尚侍と書き、「ないしのかみ」または「かみ」と呼ばれた。これは天皇の后に相当する「女御(にょご)」「更衣(こうい)」などであることが多く、后に準じる官職である。「かみ」は多くても二人程度であっ_3たが、安徳天皇の時代には、尚侍と呼ばれた女性は見当たらない。安徳帝が幼くて、まだ后を迎える年齢に達していなかったからかも知れない。
尚侍の次が典侍で「ないしのすけ」または「すけ」という。内侍司の女房何百人かの上に立つ身分の高い女房で、各時代ごとに二人から四人程度が選ばれた。
安徳天皇に従ってきた一人は、この「典侍」である。典侍それ自身の位階は従四位上か下相当の官職であるが、だれでも典侍になれるわけではない、なれるのは、例外もあるが、父親(または夫)が大納言以上の高官で三位以上の公卿である場合が多い。
官職と位階
官職というのは、いうまでもなく役人の仕事の役名である。例えば左大臣とか、大納言などだ。
位階は官人の序列を表す制度で、奈良時代に成立した律令制で定められ、途中変遷3はあるが現在の憲法ができるまで続いた。この両方を合わせて官位と言う。
位階には、一位から八位までがあり、それぞれ正と従がある。また、四位以下は正・従に加えて、上・下がある、さらに初位〔八位の下〕には大・小まであるので、計三十に分れる。
そのうち一位から三位は公卿といい、この人々が貴族であった。四位、五位は殿上人で、天皇のお側近くの殿上の間(部屋)まで伺候することができた。後にはその呼び方も崩れて、四・五位も貴族と呼んでいる。
大臣のうち太政大臣は正一位か従一位であり、左大臣・右大臣などは同じく正または従二位である、大納言は正三位で中納言は従三位というように、官職に相当する位階が決まっている。
ただし、官職より位階が高いときは、間に「行」の文字を入れることになっている。逆の場合は「守」を入れる。遺書の作者経房は左少弁なので、本来は正五位下であるが、遺書では、従四位上になっている。従って間に「行」という字が入っている。
弁官は、太政官という役所に属していて、参議・大納言。大臣などに最も近い役所である。
野木さんなど能勢の研究者が、宮内庁に行ったとき、左少弁にしては、従四位上というのは高すぎるということも、本ものだと認めにくい理由だと言われたらしい。
山川正宣(やまかわまさのぶ)
寛政2(1790)年生れで、文久3(1863)年に亡くなっています。池田で代々造り酒屋を営む家の主人でありました。幼いころから学問が好きで、国学者賀茂秀鷹(かもひでたか)に弟子入りして、国学と和歌を学びました。
安政2(1855)年には、諸国の天皇陵を調査して、『山陵考略』という書物を著しています。これは彼の代表的な著作で、第一代神武天皇から第五十一代の平城天皇までの陵墓を調査考証して、図版入りで著したものです。明治になって、歴代天皇陵を制定した時に、『山陵考略』はかなり参考にされただろうことが推測されます。その故かどうか、大正8(1919)年11月、それが復刻されて、各地の図書館などに配布されたといいます。さらに同年、死後56年を経て、従五位を贈られています。
山川正宣は、地方の地味な学者ではありましたが、考証学の面ではかなりの実績をあげていた人だったようで、各種の人名辞典にその名が見えます。
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