トップ > カルチャー >  全国 >

安徳天皇生存説を強く裏付ける『玉葉』と『吾妻鏡』

壇の浦での安徳生存説を最も強く印象付けるもののに、『玉葉』と『吾妻鏡』の記述があ
ります。
鎌倉方の記録である『吾妻鏡』では、「先帝、海底に没し御す。」とまず最初に書いて、その後、「海に入る人々」、「生虜の人々」などと続けていますが、さらに身投げした後、助けられた「生虜の人々」の中に「按察局(あぜちのつぼね」という人がいて、この人は安徳天皇を抱いて海に飛び込んだとされています、にもかかわらず〈先帝ヲ抱キ奉リテ入水ストイヘドモ存命ス〉と、不審げに書いています。大人の按察局が助けられて、それより軽い幼帝が浮かび上がらないのは、どうしたことだという疑いが、この一行の中に読み取れます。

さらに、当時の関白九条兼実(くじょうかねざね)の日記『玉葉(ぎょくよう)』(『玉海(ぎょっかい』ともいう)では、壇の浦の直後の4月4日のくだりに、「去る二月二十四日午刻、長門国団浦に於て合戦す、正午より哺時(午後四時頃、ここでは夕刻の意)に至る。伐取らるる者、生取らるるの輩、その数を知らず…」に続いて「…但し旧主の御事分明ならず」(安徳天皇のことはよくわからない)とあります。
当然、水死となるはずなのに、所在はよく分らないとされたことで、安徳帝生存説は当時から人々の間でかなり信じられていたといいます。そのためか安徳潜幸伝説が、各地に伝わっています。

安徳天皇生存説は『醍醐雑事記』においても見られる

史料的価値が高いとされている『醍醐雑事記』も、『吾妻鏡』と同様の内容になっていて、滝沢馬琴なども、「『醍醐雑事記』などによれば、先帝の行方に関しては数百年来疑いがあるが」、だからといって、この遺書を正しいとするのは間違いだと言っています。
一方、伴信友(ばんのぶとも)は、安徳天皇が海に沈まなかったなどということは「いみじきひがごと」(とんでもない間違い)で、また三種の神器の行方さえ疑いの出るようなことを書くとは「凶説なり」と、感情的に怒っています。

安徳天皇の陵墓は日本各地に残る

明治政府が各地の天皇陵を調査して制定しようとしたとき、多くの安徳天皇陵の申請がありました。結局、長門下関の赤間神宮阿弥陀寺陵が安徳天皇陵と決まり、薩摩硫黄島因幡岡益対馬巌原阿波祖谷山などは安徳天皇御陵参考地になりました。

藤原経房の遺書に出て来る大阪・能勢の岩崎八幡社は、その時申告しなかったので、参考地には指定されていませんが、大正8(1919)年、この地方で宮内庁主催の軍事演習が行なわれたとき、このことを直訴して、「それは大切にするように」といわれて、終戦までは宮内庁から警備費という名目の費用がいくらか出ていたということです。

また、能勢藩家老の大南久太郎の書状によれば、この岩崎八幡社については、古くから安徳天皇を祀ってあるという言い伝えがあったということです。
能勢地方の古書『能勢神社仏閣由来記』には、岩崎八幡社に、平家に関する出土品が数多く埋蔵されていたという記録があると、史誌編纂室の田和好氏から伺いました。
大南久太郎の書状にはありませんが、今回岩崎八幡社のある山の頂に、安徳天皇の墓石と塔があることを知りました。岩崎八幡社には遺品を、そして遺体は頂上に埋葬したと地元では考えているようです。
藤原経房の遺書の最後に、遺品を「岩崎にいわゐしづめ奉る」とありますが、遺体については触れていません。

安徳天皇の陵墓は日本各地に残る

大阪府能勢町にある岩崎八幡社にある安徳天皇御陵跡地

著者:能勢初枝(のせはつえ)

【略歴】
1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り現在も同市に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)

『ある遺書―北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』を書いた時は、大阪府高槻市に住んでいました。高槻から能勢へは峠を三つほど越えますが、車で約一時間の道程です。
途中に大阪府茨木市の「隠れキリシタンの里」があります。ここの民家の屋根裏に隠されていた「あかずの櫃」(長い木箱)の中から、教科書などにも載っている「聖フランシスコ・ザビエル画像」や「マリア十五玄義図」を始め、数々のキリシタン遺物が出てきました。これは徳川幕府によるキリシタン禁制が厳しくなった1600年頃(家康の晩年)、弾圧を恐れて隠されたものだと思われます。発見されたのは大正九年(1920年)のことでした。
『経房の遺書』はその20年ほど前の「本能寺の変」(1582年)後に、竹筒に入れて屋根裏に隠されたのだと思います。こちらは江戸末期(1817年)に見つけられました。
キリシタン遺物は、重要文化財として広く認められていますが、『経房の遺書』は原物がなくなったとはいえ、いまだに正式には認められず日陰の運命を辿っています。
「キリシタンの里」と能勢地方は隣接しています。貴重なものを権力に知られないようにするために、天井裏に隠すというのはこの地方の、あるいはこの時代の風習だったのでしょうか。
いま改めて『経房の遺書』を讀み、やはり本物だろうという印象を強めています。

1 2

記事をシェア

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

【筆者】能勢初枝

SNS

1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り、現在は大阪市内に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)

エリア

トップ > カルチャー >  全国 >

この記事に関連するタグ