トップ > カルチャー >  全国 >

各地に残る安徳天皇陵墓と歴史書から読み解く安徳天皇生存説

能勢初枝

更新日: 2024年6月3日

各地に残る安徳天皇陵墓と歴史書から読み解く安徳天皇生存説

江戸末期の文化14(1817)年、摂津国能勢(現大阪府豊能郡能勢町)の民家の屋根裏から発見された古文書は、平安の貴族藤原経房が息子にあてた遺書でした。そこには壇ノ浦から安徳天皇を守って山里能勢まで逃れてきたこと、そして天皇はこの地で亡くなられたことが書いてありました。
この藤原経房の遺書以外にも歴史書を読み解くと、安徳天皇は壇ノ浦の戦いから逃れ、生きていたと考えられる説がいくつも見られます。また、この遺書が残されていた能勢以外にも、安徳天皇陵墓は日本各地に残ります。

この記事は、著者能勢初枝が平成23年に書籍として出版した『ある遺書-北摂能勢の安徳天皇伝承』から一部を抜粋したものです。※現在当該書籍は絶版となっています。

安徳天皇の体質を歴史書から読み解く

『平家物語』をはじめ、『源平盛衰記』『吾妻鏡』などおおかたの書物が、「御年のほどよりはるかにねびさせ給ひて」と、年齢よりはるかに大人びていたと書いています。

安徳帝は、虚弱であったらしいです。安徳天皇誕生の後、「頼豪(らいごう)という僧の呪いで、白河院の皇子が早死した話」など、「御悩(おのう)」(病気)という言葉がしきりに出て来ます。安徳天皇が短命であったことを示唆しているとともに、虚弱であった印象がぬぐえません。当然、身体が大きかったとは思えませんが、大きく見えたとみな書いているのです。
また、誕生時の逸話として、皇子なら甑(こしき)を棟から南へ落とす宮廷のしきたりを、役人が間違えて女子のように北へ落としたと『平家物語』などが伝えていて、安徳皇女説は、けっこう根強くあります

1 2

記事をシェア

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

【筆者】能勢初枝

SNS

1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り、現在は大阪市内に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)

エリア

トップ > カルチャー >  全国 >

この記事に関連するタグ