二位の尼(平時子)とともに入水したのは?
平時子とともに入水したのは?-藤原経房の遺書の内容
粗末な小舟に、みんなは身なりも変えて、覚悟して乗っていた。ひとつの舟には、 主上(しゅじょう)、典侍(すけ)、経房(つねふさ)、大輔判官種長(たゆうはんがんたねなが)が乗って、岸に向かって漕ぐ。もう一つの小舟には、女院(にょいん)、大納言(だいなごん)の[佐(すけ)]、匂当内侍(こうとうのないし)、阿波内侍(あわのないし)、右少将基道(うしょうしょうもとみち)、郡司景家(ぐんじかげいえ)が乗ってこちらへ漕ぐ。間は200メートルほどもあっただろうか。岸辺には源氏の兵が何人もいる、舟にも陸にもたくさんいて、とて も逃れ切ることはむずかしい。平家一門の人々は、ある人は討たれて海に沈んでしまわれた。
二位殿は、知盛卿(とももりきょう)の二番目のお子さんに、お衣装をお着せになって、須磨の宮殿でなくなったと聞いていた御剣(三種の神器の一つ)のようなものを、お持たせになって、 海にお入りになった。そのありさまを見たものは、身の置きどころもなく暗澹たる気持 になり、敵も味方もみんな嗚咽をこらえ、念仏を唱えながら、潜って(お二人を) 水上 にお引き上げようと騒ぐ。
二位の尼(平時子)とともに海に沈んだのは平知盛の子:解説
天皇の身替わりとして、二位の尼(平時子)が選んだのは、知盛の乙(おつ)の子でした。乙の子というのは、二番目の子の意味で、知盛には、知章(とおあき)、知忠(ともだた)、知宗(ともむね)の三人の男児がありました。
長男知章は生田(いくた)の森の戦いで、父知盛を助けるために敵に討たれました。 息子が首をきられるのを見た知盛は、「目の前で、子が親を助けようとして敵とたたかうのを見ながら、なんという親であろうか、その子を助けないで逃げ帰ってしまった」と激しく泣きます。そして源平合戦最後の日、御座船の中を掃き拭い、きれいに掃除して、浮び上がらないようにと鎧二領(よろいにりょう)を身につけ、「見るべきほどの事は見つ」(この世で経験すべき事のすべてを見た)の名台詞を残して、海に飛び込んで果てました。
平家一族の中で、最も人間的に興味深い武将として注目されているこの平知盛が、長男に続いて次男も、目の前で海に入るのを目撃したとすれば、「見るべきほどの事」の中身は、さらに重いでしょう。
知盛の三男の知宗は、その時、3、4歳だったらしく、助けられて後に出家したといいますが、系図では重尚(しげひさ)という子息ももうけています。 二男の知忠には子はなく、系図もそこで途絶えています。
安徳天皇についての2つの描写
『平家物語』巻十一の中の「先帝身投げ」の章に、うっかりすると見落としてしまいそうな、二人の安徳天皇がいます。
一人は、「主上ことし八才にならせ給へど、御年の程よりはるかにねびさせ給ひて、御かたちうつくしく、あたりもてり輝くばかり也.御ぐしくろうゆらゆらとして、御せなかすぎさせ給へり」(天皇は今年8才になられたけれど、お年よりは、はるかに大人びて、お姿も端正で、黒髪がゆらゆらと背中をすぎるほどだ)という天皇。
一方、そのあと、二位の尼(平時子)が「海の底にも都がございます」と、神々への祈りを唱えた後「山鳩色の御衣にびんずらゆわせた」幼児の髪形のままの安徳天皇が、「小さな手」をあわせて、言われるままに四方の神々に祈り、二位の尼に抱きかかえられて海に飛び込んだと書かれています。
前の安徳帝の姿は、遺書で身代わりとされた平知盛の次男に符合します。平知盛の次男は、天皇より2才年上でしっかりしているので、大人びてみえたでしょう。
安徳天皇の肖像画として、伝わっているのは大人びた姿のものだけで、「平家物語」の文章から浮んで来る幼い安徳天皇像は、残念ながら伝わっていません。
壇ノ浦の戦いの最後、二位の尼(平時子)は身を捨てて賭けに出た
平清盛と時子には多くの子どもがいましたが、そのうち嫡男の重盛(しげもり)は平時子が生んだ子ではありません。平時子の子どもは宗盛(むねもり)・知盛(とももり)・重衡(しげひら)、そして女子の建礼門院・徳子(とくこ)です。 平時子にとって、安徳帝は生れた時から傍に置いて、わが手で育てた孫で特別可愛いがりました。しかも彼は天皇です。安徳帝が生きていれば、平家再興の望みも叶うかも知れません。
「昔よりたたかいでは、女は殺さぬ習い」と平時子自身が語ったことになっていますが、当時の日本では、それが常識であったはずです。女の平時子は、たとえ源氏の手に落ちたとしても、おそらく殺されることはないだろうと知っていました。にもかかわらず、「わが身は女なりとも、かたきの手にはかかるまじ」と、わざわざ叫んで、海中に身を投じたのは、敵の目を自分に惹きつけておくために、彼女自身が選んだ賭けでありました。 身を捨てることで、敵も味方も、そして後世の人々をも欺いた平時子の一世一代の大芝居だったといえないでしょうか。
このとき海中に入って亡くなった女性は、平時子だけであったといいます。
乙の子・知忠に関する伝承
藤原経房は、水に入った二人のその後については書いていません。
知盛の次男、平知忠にはいくつかの伝説があります。壇の浦から10年後の建久7(1195)年、成人した知忠は、都の法性寺(ほうしょうじ)のそばの一の橋というところへ潜んでいました。夜になると、彼のもとへ人々が集まってきて、詩や歌を詠み、管弦に興じました。それを「異勅(いちょく)」(謀反)の者が集まっていると訴えられて、多くの兵に囲まれて自害したとも、また、藤原忠光(ふじわらただみつ)という剛(ごう)の者とともに、源氏に対して反乱を起し、討ち死にしたとも伝えられています。これが史実かどうかは分らないにしても、この伝説が生れるということは、このとき平知忠は逃げ遂(おお)せた可能性が十分あります。
「そなたは、泳ぐことができよう。必ず浮び上がって助かり給へ」と、平時子が言ったかどうか、言わなかったとしても、一人の孫をもう一人の孫のために犠牲にできるほど、彼女は非情な女だったとは思えません。幼児が溺死したという記録はなく、安徳天皇だけが、浮び上がらなかったということになっています。
平時子は権力志向の強い女だったという見方もありますが、どちらかといえば、身内の繁栄を願う自己中心的な女性で、娘徳子の出産にオロオロし、三種の神器と息子重衡の命とを引き換えてやろうと言われれば動揺します。だからこそ、いざとなれば、最も大切な肉親のために、わが身を捨てることもできた女でしょう。
海の宮島に厳島神社を造り、瀬戸内に沿った福原の宮(現神戸市)に都を移し、西走後にたどり着いた北九州の太宰府や彦島(ひこしま)、そして四国の屋島(やしま)など、常に水と縁が深かった平家の公達(きんだち)たちは、泳ぐことができたはずです。現に、知盛などが入水した後、いつまでも飛び込もうとしない宗盛は、味方の兵によって父子ともに船から突き落とされますが、親子ですいすいと泳ぎまわっているうちに、源氏に捕らえられています。鎧などを重しにして覚悟の入水をした知盛などと比べて、生き恥をさらすことになりました。少年の知忠が泳げなかったとは思えません。
安徳天皇は壇ノ浦の戦いからどのように逃れたか
壇ノ浦の戦いからの脱出-藤原経房の遺書の内容
この騒ぎの間に、舟を岸辺に着けた。さっそく種長(たねなが)が、幼帝を背負い申した、急いで走りながら振り返ってみると、建礼門院のお乗りになった御舟は、やっと岸辺に着いたところで、早くも源氏の武士が取り囲んでいる、それを見て典侍は、気を失うほどに動転された。
この様子を主上にはお知らせしないようにと、典侍を強く励まして、敵に見つからないよう物陰に隠れながら行くうちに、どのようにして逃げてきたのか、門院の舟に乗っていた景家が早くもやってきた。
悲しみの中ではあったが、力を出しあって、三里ほど山の中を歩いて、木の下にあった粗末な小屋にたどり着いた。主上は「二位(祖母)はまだ来られないのか」とばかりおっしゃるけれど、だれもお互いに顔を伏せて涙が止まらない。過去のこと、そしてこれからのことばかりが思われて、はっきりとお答することもできない。それをご覧になって主上が涙にくれていらっしゃるのが、ほんとうにもったいない。
女院は源氏の兵に捕らえられる-藤原経房の遺書の内容:解説
建礼門院(けんれいもんいん)は、水の中から源氏の兵によって引き上げられたというのは、知る通りですが、われわれが知っているのは、御座船(ござぶね)から飛び込んだとき、源氏の兵によって髪の毛に熊手を掛けられて引き上げられたということです。
また、藤原経房の遺書で建礼門院の舟に乗ったとされている大納言佐も、『平家物語』では、三種の神器の入った箱を持って、海に入ろうとしたとたんに、袴の裾を船端に射抜かれて取り押さえられ、つまずいて転んだとまで書いてあります。
他の女房については、このときの様子は描かれていませんが、この二人の様子はかなり詳しく、しかも「あさまし(情けない、気の毒だ)」と、女房たちに言わせています。捕えられて、移送されてきたときの様子を、御座船の上から見ていた女房たちの嘆息ではないでしょうか。
母親から「死に給うことなかれ」と、こんこんと言われている建礼門院が、水面からかなりの高さのある御座船(大きな唐船を使っていた)から、高い船端を乗り越えてまで、入水しようと考えたでしょうか。女院の舟に乗っていたとされる人々のうち、大納言佐(だいなごんのすけ)と阿波内侍(あわのないし)は、建礼門院が大原寂光院(おおはらじゃっこういん)に棲んだのちも、傍らに侍していたことは、〈潅頂の巻〉に詳しく描かれていますが、ここからの縁でしょうか。
このとき、藤原経房たちが帝を、基道たちが三種の神器を守って逃げることになっていたのかもしれません。
壇ノ浦の戦いからの脱出は同行者に家来もいたはず
ところで、「種長が主上(しゅじょう)を負い申して」とありますが、(大輔判官)種長(たねなが)自身が背負ったのかどうか、種長の家来が負ったのではないかと思われますが、当時は、下級の家来などのことは、まるで空気のように無視して、文字などには著さないので、よくは分りません。おそらく安徳天皇の舟には、漕ぎ手を含めて種長の家来が何人か乗っていたはずです。
もっとも、この壇ノ浦の戦いのときは、漕ぎ手として、地元の漁師などを徴用したといいます。舟をもたない源氏は、とくにそうであったようですが、海の民であった平家は、自前の舟も漕ぎ手も、用意していたでしょう。ただ、この頃になると、負け戦さの中で多くの舟を失っていますが、大切な帝の舟の漕ぎ手は、味方の武士であった可能性が大きいのではないでしょうか。だから、「種長負い申して」というのは、種長の家来だろうと推測します。そうでなければ、このあとの逃避行中、「菅原道真の子孫」だと言い逃れるためには、せめて天皇を駕(が)でかつがなければならなかったはずですから。
それにしても、「おばあちゃん子」だった8歳の幼帝安徳が、「お祖母ちゃんはまだ来ないのか」と泣きじゃくっている様子は、十分に真実味があります。8歳といっても、数え年だから、11月生れの安徳天皇は、この時満年齢では、7歳になっていないわけで、泣くのも仕方がないでしょう。しかし、ほんとうに泣きたかったのは、藤原経房自身だったでしょう。
著者:能勢初枝(のせはつえ)
【略歴】
1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り現在も同市に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)
『ある遺書―北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』を書いた時は、大阪府高槻市に住んでいました。高槻から能勢へは峠を三つほど越えますが、車で約一時間の道程です。
途中に大阪府茨木市の「隠れキリシタンの里」があります。ここの民家の屋根裏に隠されていた「あかずの櫃」(長い木箱)の中から、教科書などにも載っている「聖フランシスコ・ザビエル画像」や「マリア十五玄義図」を始め、数々のキリシタン遺物が出てきました。これは徳川幕府によるキリシタン禁制が厳しくなった1600年頃(家康の晩年)、弾圧を恐れて隠されたものだと思われます。発見されたのは大正九年(1920年)のことでした。
『藤原経房の遺書』はその20年ほど前の「本能寺の変」(1582年)後に、竹筒に入れて屋根裏に隠されたのだと思います。こちらは江戸末期(1817年)に見つけられました。
キリシタン遺物は、重要文化財として広く認められていますが、『藤原経房の遺書』は原物がなくなったとはいえ、いまだに正式には認められず日陰の運命を辿っています。
「キリシタンの里」と能勢地方は隣接しています。貴重なものを権力に知られないようにするために、天井裏に隠すというのはこの地方の、あるいはこの時代の風習だったのでしょうか。
いま改めて『藤原経房の遺書』を讀み、やはり本物だろうという印象を強めています。
※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

【筆者】能勢初枝
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1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り、現在は大阪市内に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)