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「安徳天皇は生きていた」という遺書を書いた「藤原経房」について

では遺書を書いた藤原経房は、どこの誰か、ということになります。
遺書の経房は、左少弁です。同姓同名の大納言吉田経房は左大弁で、その兄弟もすべてそれぞれ弁官に任じられています。平家物語の作者の一人かと言われている資経も左大弁であり、勧修寺流藤原氏は弁官の家系であることは先に述べました。この吉田経房一族の一人ではないかと、考えられます。

藤原経房という人物の存在を『尊卑分脈』から推察する

そこで、『尊卑分脈』を見ることにします。その中で吉田経房の弟の藤原光長に注目しましょう。この人は吉田経房と同腹の弟で、兄経房が参議大弁官を退いたのち、同じ官位を継いでいます。そして、この人の息子をみると、上の三人は名前の中に「」という文字(後には諱という)を持っています。この藤原光長の子ではないかと推理します
遺書を書いた藤原経房は、建保5(1217)年に、数えの50歳であるから1168年、すなわち仁安3年に生れていることになります。高倉天皇即位の翌年です。そして壇の浦から脱出したときは、わずか数え年18歳でした。平家都落ちのときは16歳の若さです。

<尊卑分脈より> 藤原(吉田)経房の系図

遺書を書いた藤原経房は藤原光長の子?

藤原光長の嫡男、長房(ながふさ)は仁治4年(1247)に76歳で亡くなっています。逆算すると、生まれは承安2(1172)年になり、1168年生れの藤原経房とは4歳違いということになります。

「平治の乱」が始まったとき、平清盛は侍従として預かっていた敵の3歳の子を親に返しています。当時、公家や武士には、幼い我が子を有力者に侍従として預けるということが行なわれていたらしいのです。とくに平清盛は多くの子どもを預かっていたといいます。藤原経房も、そうした一人だったと考えることもできます。
光長は、長男だった経房を、高倉天皇か、平清盛か、あるいは平重盛に侍従として預けたのではないでしょうか。ところが源平の戰いが始まって、彼は平氏に取られてしまった、そんなことで、系図から外れてしまったのではないでしょうか

藤原経房がわずか18歳で、安徳天皇に従う人の中心に選ばれたのは、船の上という限られた環境の中で、人材が少なかったということもあるでしょうが、二位の尼‐平時子の信頼が厚かったのでしょう。幼い頃から賢く、真面目で忠実だと認めていたので、たとえ18歳でも、時子は経房を選んだのです。

遺書の文章が未熟なことも納得

大南久太郎をはじめ地元の研究会では、吉田経房自身の子ではないかという説もあるようですが、彼の長男の定経(さだつね)は保元3(1158)年生まれで、安仁3(1168)年生まれの藤原経房とは、11歳も年齢が隔たっています。
その長男は出家し、また次男も不孝逐電された吉田経房が、三男まで平家に取られるままにしたというのはどうでしょう。どちらかと言えば、弟の光長の子どもと考えた方が納得出来るように思います。
さらに弁官は記録を書くことも大切な仕事ですが、公式の記録の他、個人の記録を残している人が多いこともあります。
遺書の藤原経房の文章を、伴信友などは下手な文章だと貶していますが、若い時から落ち着く間もなしに、戦さの中で過ごし、後年は暮らしのために懸命に働かざるを得なかった藤原経房には、しっかり学問をする時間はなかったでしょうが、それでもこれだけのものが書けるということは、やはり血筋ということにならないでしょうか。

著者:能勢初枝(のせはつえ)

【略歴】
1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り現在も同市に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)

『ある遺書―北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』を書いた時は、大阪府高槻市に住んでいました。高槻から能勢へは峠を三つほど越えますが、車で約一時間の道程です。
途中に大阪府茨木市の「隠れキリシタンの里」があります。ここの民家の屋根裏に隠されていた「あかずの櫃」(長い木箱)の中から、教科書などにも載っている「聖フランシスコ・ザビエル画像」や「マリア十五玄義図」を始め、数々のキリシタン遺物が出てきました。これは徳川幕府によるキリシタン禁制が厳しくなった1600年頃(家康の晩年)、弾圧を恐れて隠されたものだと思われます。発見されたのは大正九年(1920年)のことでした。
『経房の遺書』はその20年ほど前の「本能寺の変」(1582年)後に、竹筒に入れて屋根裏に隠されたのだと思います。こちらは江戸末期(1817年)に見つけられました。
キリシタン遺物は、重要文化財として広く認められていますが、『経房の遺書』は原物がなくなったとはいえ、いまだに正式には認められず日陰の運命を辿っています。
「キリシタンの里」と能勢地方は隣接しています。貴重なものを権力に知られないようにするために、天井裏に隠すというのはこの地方の、あるいはこの時代の風習だったのでしょうか。
いま改めて『経房の遺書』を讀み、やはり本物だろうという印象を強めています。

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【筆者】能勢初枝

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1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り、現在は大阪市内に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)

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