更新日: 2024年6月3日
安徳天皇は生きていた?!~大阪能勢町で発見された藤原経房の遺書~
江戸末期の文化14年(1817年)、摂津国能勢(現大阪府豊能郡能勢町)の民家の屋根裏から発見された古文書は、平安の貴族藤原経房が息子にあてた遺書でした。
そこには壇ノ浦から安徳天皇を守って山里能勢まで逃れてきたこと、そして安徳天皇はこの地で亡くなられたことが書いてありました。
※この記事は、著者能勢初枝が平成23年に書籍として出版した『ある遺書-北摂能勢の安徳天皇伝承』から一部を抜粋したものです。※現在当該書籍は絶版となっています。
目次
藤原経房の遺書が能勢町で見つかった
江戸末期の文化14(1817)年3月、摂津の国、能勢(現大阪府豊能郡能勢町)の農家で、春の屋根の葺き替えがおこなわれていました。この地方には、いまも茅葺きの立派な民家が数多く残っていて、平成の現代でも、住まいとして使われているものも少なくありません。地元では、茅葺きのことを草家と呼びます。
今から約200前のこととなりますが、その茅葺き屋根の葺き替え中に、屋根職人が妙なものが天井の梁にしっかり結わえつけられているのを見つけました。それは真っ黒に煤けた竹筒でした。
当主の辻勘兵衛(つじかんべえ)が、竹を割ってみると、隙間には石灰のようなものが詰められ、中からなにやら古文書らしきものがでてきました。汚れて墨の色も薄くなっていた上にところどころ虫に喰われていて、とても読みにくいものだったので、能勢藩国家老の大南久太郎(おおみなみきゅうたろう:1777~1833年)のところへ持ち込みました。大南は、同じ能勢藩の御用人、妙見山惣取締吟味掛であった植田兵馬(うえだへいま:1768~1827年)の協力を得て、勘兵衛立ち会いのもと、苦労してどうにか読み終えました。
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【筆者】能勢初枝
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1935年、岡山市に生まれる。岡山県立操山高校・奈良女子大学国文科卒業。結婚後、東京に約20年、途中札幌に3年間、さらに千葉県市川市に2年居住。夫の転勤で大阪府高槻市に移り約30年、夫の定年後岡山市に3年、その後兵庫県神戸市に移り、現在は大阪市内に在住。
【著書】
・『ある遺書「北摂能勢に残るもうひとつの平家物語』2001年発行(B6版218ページ)
・『右近再考高山右近を知っていますか』2004年発行(A5版277ページ)
・カラー冊子『歴史回廊歩いて知る高槻』(共著)2007年発行(A4変型版&ページ)