更新日: 2024年1月13日
桶狭間の戦い~10倍以上の今川軍を破った織田信長の攻撃
圧倒的兵力差を覆し、大将義元を討ち取りました。信長の戦術は迂回しての奇襲ではなかった!?
桶狭間の戦い~圧倒的兵力差を覆し大将義元を討ち取った織田信長
織田信長と今川義元の因縁は、信長の父・信秀の代から始ります。義元が三河を支配下に収めたことで信秀が直接今川の勢力圏と境を接するようになったことによります。
一方、信長の名を天下に知らしめた桶狭間(おけはざま)の戦いの直接のきっかけは、信秀の死後、国境(くにざかい)の鳴海城(なるみじょう)、大高城(おおだかじょう)を今川義元に奪われた信長が、城を奪還すべく砦(とりで)を築いて包囲したことにあります。
国境付近が風雲急を告げた永禄3年(1560)、今川義元自らが2万5000ともされる大軍を率いて尾張に攻め込んできました。対する信長は尾張を平定した直後で兵力は2000余り。兵力差は圧倒的で、もはや信長の命運は風前の灯火(ともしび)かと思われましたが、信長は今川義元が大高城に向かう途中、桶狭間で休息に入ったとの報を得ると、清須城を飛び出しました。
熱田(あつた)神宮で兵を整えた信長は、桶狭間で休息をとる義元本陣を急襲します。大将今川義元の首を討ち取るという大金星をあげたのです。これが桶狭間の戦いです。
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