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群馬は交通の便の良さから遷都の候補にも

この恵まれた立地と交通は、歴史のなかでも何度か為政者に注目され、遷都(せんと)論争が巻き起こると群馬の名がたびたびあがりました。大正12(1923)年の関東大震災後、第二次世界大戦の時。そして古くは明治19(1886)年に、井上馨(いのうえかおる)外務大臣らが「上州遷都論」を提案。井上は新都の立地条件として「内陸にあり海から攻められにくい」、「水源が豊かで給排水施設が建設しやすい」ことに加え、「平地で四方に交通の便が開かれている」点を挙げています。

群馬の交通インフラは江戸時代のさまざまな街道が現在に生きている

交通インフラの原型ができたのは江戸時代のことです。関ヶ原の戦いを制して江戸幕府を開いた徳川家康は、全国を支配するために江戸と各地域を結ぶ五街道の整備に着手。さらに土地の大名が脇往還(わきおうかん)という五街道の支線をつくりました。

そうして群馬には、新町から坂本まで7つの宿場を県内に持つ中山道(なかせんどう)、新潟方面に抜け長岡・寺泊(てらどまり)にいたる三国街道(みくにかいどう)、日光東照宮に参拝するための日光例幣使街道(にっこうれいへいしかいどう)と、いくつかの脇往還(会津、下仁田、信州など)がつくられました。

これらの道筋は現在の高速道路、鉄道、国道、県道と概ねオーバーラップしています。中山道が信越本線下仁田道が上信越自動車道三国街道が関越自動車道日光例幣使街道が北関東自動車道といった具合です。

群馬の交通インフラの元となった街道にある城下町や関所

大小さまざまな街道が多い群馬では、宿場だけでなく城下町も要衝として栄えました。一番大きいのは、かつて和田宿と呼ばれ、江戸時代以降に改名された高崎城下町。江戸・信濃(長野)・越後(新潟)につながる中山道・信州街道・三国街道が交わる高崎は、利根川へ注ぐ烏川(からすがわ)も流れ、陸運と水運の中継地として人と物が集まりました。「関東と信越つなぐ高崎市」と上毛かるたで詠まれたとおりです。

また街道の多さはそのまま関所の数に比例しました。数でいうと14か所と日本一。江戸時代の全国の関所の数は53といわれ、つまり群馬には関所全体の約3割があったのです。

江戸時代の街道と関所

江戸時代の街道と関所

江戸時代の群馬は中山道だけでなく、大小さまざまな街道が交錯する重要エリア。それだけに設置された関所の数も全国一でした。

群馬の交通アクセスの重要な役目を担う関越トンネル

「入鉄砲に出女」を警戒する関所がなくなり、高速で行き来ができる現代ですが、それには先人の汗と涙があったことを覚えておきたいものです。昭和60(1985)年に開通した関越トンネルのことです。

関越トンネルは、関越自動車道の太平洋側と日本海側をつなぐ、完成当時は長さ日本一(約11km)のトンネル。群馬と新潟の県境にある谷川岳を貫いており、ダイナマイトで爆破しながら掘り進む工事は8年に及びました。総事業費は約630億円で、大量の湧水や山はねに苦しむ難工事でした。

この完成により、とくに厳冬期に危険な「三国峠越え」をせず移動が可能になりました。後に関越自動車道が上信越自動車道や北関東自動車道とつながったことを鑑みても、関越トンネルの存在意義は非常に大きいのです。

高速交通網で東西南北とつながる群馬県

高速交通網で東西南北とつながる群馬県

東京まで100kmの距離は高速道路や新幹線を使えばたったの1時間強。各地の空港や港とも結ばれているので、国内だけでなく海外への移動にも適しています。

群馬の交通は水運の便にも恵まれる

河川を舟で行く水運の便にも群馬は恵まれました。すでに戦国時代には利根川を使った水運が用いられていましたが、本格利用となるとやはり江戸時代に入ってからです。初期に運んだのは参勤交代の際の武士の荷物や年貢米。その後、江戸の町が発展し、大量消費地になるにつれ、各地の商品が積荷に加わりました。舟の積載量は馬より圧倒的に多く、経済発展に一役も二役も買ったのです。

群馬の水運は産業に貢献

積荷の上げ下ろしが行われ、問屋が並ぶ河岸(かし)はにぎやかで、群馬に約40か所あったといわれます。

例えば信州の大名が江戸まで年貢を運ぶには、烏川の倉賀野河岸(現・高崎市)で舟に乗せ、坂東太郎(ばんどうたろう)と呼ばれた利根川を目指しました。亀岡河岸(現・太田市)からは足尾銅山の銅が船積みされました。そのほかに群馬から江戸へは大豆や炭、タバコなどが下っていき、江戸から群馬へは塩、茶、糠などが上がっていきました。

群馬の水運と利根川の大工事の関係

利根川の河口は江戸初期まで東京湾にありました。文禄3(1594)年に徳川家康の命で始まった大工事「利根川東遷(とねがわとうせん)」で、現在のように千葉県銚子まで進むよう、大きく流れが変わったのです。

その目的は洪水対策、新田開発の促進、そして銚子までの交通を開くこと。実に60年かかった大事業の末に、利根川水系は支流、分流合わせて拡大し、群馬ひいては関東の大動脈にまで成長していきました。

江戸と銚子は東廻り航路の港です。利根川は、東北地方までつながる水運の道であったといっても過言ではありません。

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