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後醍醐天皇の執念と鎌倉幕府滅亡

まっぷるトラベルガイド編集部

更新日: 2024年1月20日

後醍醐天皇の執念と鎌倉幕府滅亡

正中の変で失敗した後醍醐天皇は、再び討幕を狙って挙兵します。しかし、六波羅探題軍などに鎮圧され、元弘の変も失敗。後醍醐天皇は隠岐に流されてしまいました。
しかし、後醍醐天皇は隠岐から脱出することに成功。護良親王や楠木正成の挙兵を皮切りに、後醍醐天皇をはじめとする反幕府勢力が勢いを増します。そして足利高氏まで離反すると勢いは止まらなくなり、最後は新田義貞が鎌倉を攻め、幕府を滅ぼしました。

再び権力の座についた後醍醐天皇が築いた建武政府は、摂政・関白を置かず、天皇自らが政治を行う体制でした。統治機構は鎌倉幕府に近いものでしたが、旧御家人や公家を重用したため、討幕に貢献した多くの武士たちが離れていくことになりました。

後醍醐天皇は幕府に戦いを2度失敗するも信念を貫いた

【要点はココ】
◎元寇の後、幕府は大いに疲弊しました。
◎弱体化した幕府を倒そうと、後醍醐天皇が決起しました。
◎後醍醐天皇の討幕計画は二度とも失敗に終わり、後醍醐は隠岐へ流されました。

後醍醐天皇は幕府打倒に燃えた

元寇で軍事的・経済的負担を強いられた幕府は、財政を悪化させていました。日本の防衛に貢献した御家人たちも、十分な恩賞を得られず困窮していきます。

そうしたなか、幕府を打倒しようとする動きが生まれます。首謀者は大覚寺統から即位した後醍醐天皇でした。

後醍醐天皇は「この国では天皇自ら政治を行うのがあるべき姿」という考えの持ち主で、幕府が弱体化したいまこそ挙兵すべきときと確信。1324(正中元)年、日野資朝(ひのすけとも)・俊基(としもと)などの公家、土岐頼員(ときよりかず)や多治見国長(たじみくになが)などの武士を味方に引き入れ、六波羅探題(ろくはらたんだい)を襲撃する計画を立てます。

この計画は事前に発覚してしまい、失敗に終わりました(正中の変)が、それでも後醍醐天皇は討幕をあきらめません。

後醍醐天皇による2度目の討幕計画も失敗

もともと後醍醐天皇は後二条天皇の第一皇子が成長するまでの中継ぎとみなされており、その認識を変えるには皇位継承に発言権をもつ幕府を倒さなければなりませんでした。

そこで後醍醐天皇は1331(元弘元)年、楠木正成らと再び挙兵します。しかし、幕府軍が後醍醐方の陣地の笠置山(かさぎやま)に火を放つと、逃亡した後醍醐天皇はあっけなく捕らえられ、隠岐(おき)への流罪に処されたのです(元弘の変)。

元弘の変の経過

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鎌倉殿の13人と関連の人物:後醍醐天皇

大覚寺統から出た96代天皇です。即位すると院政を廃して、天皇の政治的権限を強めるなどの活動を開始。やがて幕府打倒の意思を固めていきます。強烈な個性の持ち主で、子が40人近くいました。

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