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元寇②弘安の役:モンゴル軍が再び襲来するもまたもや暴風雨に助けられる!

文永の役で敗戦を喫したモンゴル軍が、今度は14万の大軍で日本に襲来しました。しかし、日本軍の武士が奮戦して上陸を許さなかったうえ、またもや暴風雨が到来。モンゴル軍は撤退を余儀なくされました。
【要点はココ】
◎文永の役の7年後にモンゴル軍が再び日本を襲いました。
◎日本も再襲撃に備えて準備しており、簡単に上陸させませんでした。
◎最後は暴風雨がモンゴル軍を撤退させました。

弘安の役:北条時宗はモンゴルからの服属を拒否のうえ使者を殺害

文永の役で日本を襲撃したモンゴル帝国の皇帝フビライは、その後も日本に使者を派遣して服属を求めました。しかし、幕府の執権北条時宗はまたも拒絶し、今度は使者を殺害。これを知って激怒したフビライは、1279(弘安(こうあん)2)年に南宋(なんそう)を滅ぼすと、再び日本侵攻を企てたのです(弘安の役)。

1281(弘安4)年、フビライは日本を攻略するため、14万もの大軍を派遣。元ん)・高麗軍の東路軍と、旧南宋の兵を中心とした江南(こうなん)軍の二手に分かれての出撃となりました。一説によると、南宋の滅亡によって発生した大量の失業者(職業軍人)を、日本に植民させる目的があったともいわれています。

弘安の役:文永の役の経験を活かした迎撃

まずは東路軍が博多を襲いますが、文永の役とは異なり、なかなか博多に上陸できません。それは、幕府が前回の経験をふまえて対策を講じていたからです。

幕府は西国の守護を北条一族で固めて迎撃体制を整えたほか、御家人たちに石築地(いしついじ)と呼ばれる防塁(ぼうるい)をつくらせ、沿岸の守りを強化。こうした策が功を奏した格好です。

東路軍は仕方なく江南軍と合流して総攻撃をかけようとしました。ところが、松浦湾に停泊しているときに暴風雨に見舞われ、大半の兵士が海の藻屑と消えてしまったのです。

弘安の役でのモンゴル軍の動き

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鎌倉殿の13人と関連の人物:北条時宗

5代執権北条時頼の子で、18歳で8代執権に。元寇という国家の一大事に直面し、終始強硬な態度でモンゴル軍をくい止めました。国難を切り抜けた英雄ですが、その苦労が祟ったのか、34歳の若さで亡くなっています。

元寇の神風伝説の真意

元寇で暴風雨が発生したのは弘安の役だけです。それは神風ではなく台風でした。

元寇1回目の文永の役は冬に起こった

日本が二度にわたるモンゴル軍の襲撃を防ぐことができたのは、戦闘の最中に暴風雨(台風)があったおかげだといわれてきました。暴風雨を「神風」に見立てて「日本は神の国である」とする神国思想も、元寇を機に広まったとされています。

しかし現在では、文永の役では暴風雨はなかったという説が有力になっています。

そもそも暴風雨の根拠は、京都の公家勘解由小路兼仲(かでのこうじかねなか)の日記『勘仲記(かんちゅうき)』に書かれている「(敵の船が)にわかに吹いた逆風によって本国に流されたと聞いた」という一文なのですが、これは伝聞記事でしかなく、元側の史料では暴風雨についてまったく言及していません。しかも、モンゴル軍が撤退したのは現在の11月26日で、台風が日本にくるような時期ではないのです。

こうした理由から、モンゴル軍は最初から日本への威力偵察だけを目的としていたため、短期で引き上げたのではないかといわれています。

元寇2回目の弘安の役は台風シーズン

ただし弘安の役では、台風が発生した可能性が高いとみられています。二度目に襲来した敵軍が撤退したのは現在の8月23日。この時期は台風シーズンの真っ只中です。

これと文永の役が混同された結果、神風が吹いたと伝えられるようになったのかもしれません。

元寇と暴風雨の関係は?

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■鎌倉幕府の滅亡/幕府方の足利高氏が謀反!新田義貞も活躍し幕府が滅びる

見どころ―目次から抜粋:室町時代

■建武の新政/武家軽視の方針が仇に……挫折した後醍醐天皇の夢
■中先代の乱/ついに後醍醐天皇と決別!政府打倒を目指す尊氏
[中世史の最前線]黒い馬にまたがる騎馬武者は足利尊氏ではない?
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■観応の擾乱/尊氏と直義の骨肉の争い!史上最大の兄弟喧嘩の顛末は?
■将軍権威の確立/武家と公家両方の頂点に立ち、幕府を全盛期に導いた足利義満!
■幕府統治機構の確立/鎌倉幕府を踏襲した統治機構が義満の時代にようやく確立する
■南北朝合一/南北に分裂していた朝廷が約60年のときを経てひとつに!
■日明貿易/優先すべきは名より実 巨大ビジネスをものにした義満
[中世史の最前線]足利義満は本当に天皇の地位を奪おうとしていたのか

著者紹介

山田 邦明(やまだ・くにあき)
1957年、新潟県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。東京大学史料編纂所教授などを経て、現在愛知大学文学部教授。日本中世史を専門とする。主な著書に『鎌倉府と関東』(校倉書房)、『日本の歴史8 戦国の活力』(小学館)、『日本中世の歴史5 室町の平和』『戦国のコミュニケーション』『人物叢書 上杉謙信』(以上、吉川弘文館)、『日本史のなかの戦国時代』(山川出版社)、『鎌倉府と地域社会』(同成社)などがある。

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