更新日: 2024年12月3日
元寇を2度にわたり切り抜けた北条時宗~文永の役、弘安の役~
文永の役で日本軍の武士たちはモンゴル軍の戦法にたじたじになりました。しかし、必死の抵抗で侵攻をくい止めたのです。
【要点はココ】
◎モンゴル帝国は東アジアから東ヨーロッパまでを支配する大帝国でした。
◎モンゴル軍の戦い方に、日本の武士たちは翻弄されますが、モンゴル軍はなぜか一夜にして撤退しました。
目次
元寇①文永の役:そのとき北条時宗、幕府はどう動いた?
文永の役:最強帝国モンゴルが日本に襲来!
3代執権北条泰時以降、鎌倉幕府は安定期に入りました。しかし、8代執権北条時宗の治世下で、日本国内を騒然とさせる大事件が起こります。そう、二度にわたるモンゴル軍の侵攻(元寇(げんこう))です。
当時、ユーラシア大陸ではモンゴル帝国が東ヨーロッパにまで版図を広げており、皇帝フビライは次の標的として日本に狙いをつけました。フビライはまず外交交渉を試み、日本へ使者を送りますが、日本側(幕府)に追い返されてしまいます。これを受け、1274(文永(ぶんえい)11)年にモンゴル軍が3万以上の軍勢で九州へと襲来したのです(文永の役)。
モンゴル軍の戦法に面食らう
博多に上陸したモンゴル軍を迎え撃ったのは、九州の御家人を中心とした幕府軍(日本軍)です。
日本軍は奮戦しましたが、日本軍が一対一で名乗りを挙げて戦うのに対し、モンゴル軍は集団戦法で戦うため、苦戦を強いられます。それに加え、モンゴル軍は日本で卑怯(ひきょう)とされていた毒矢を使ったり、てつはうと呼ばれる炸裂弾(さくれつだん)を用いて、日本軍を翻弄(ほんろう)。戦局はモンゴル軍の優位に進みました。
しかし、なぜかモンゴル軍は一夜にして撤退。その夜は暴風が吹いていたと伝わります。
文永の役でのモンゴル軍の動き
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