目次
13人の合議制メンバーの北条時政が粛清の嵐で将軍独裁を阻む
【要点はココ】
◎源頼家は独裁政治をあきらめませんでしたが、病に倒れてしまいます。
◎権力の空白を狙い、北条時政が動きます。
◎時政に反発した比企能員が粛清され、頼家も失脚。時政が政治の実権を握ることになりました。
それでも源頼家は独裁を目指した
鎌倉殿の13人による合議制が開始されてからも、源頼家は独裁政治をあきらめず、側近の梶原景時や舅(しゅうと)の比企能員を味方につけて自ら政務を行うようになりました。1202(建仁2)年には征夷大将軍に任命され、正式に2代将軍の座につきます。
ところが、梶原景時は御家人66人からの弾劾によって早々に失脚。さらに1203(建仁3)年7月には頼家自身が体調を崩し、危篤に陥ってしまいます。このとき将軍権力の削減を狙って動いたのが北条時政でした。
源氏将軍による独裁を防ぎたい時政は、「頼家亡き後は頼家の長男一幡(いちまん)と頼家の弟千幡(せんまん)(のちの実朝)で全国を東西に分けて統治するべきだ」と主張したのです。
北条時政による大粛清が!
これに比企能員が反発し、時政暗殺を企てますが、時政は事前に計画を察知。同年9月、時政は比企能員を自邸に招いて殺害すると、その後、比企一族全員、さらには一幡までも粛清してしまったのです。
9月5日、死の淵から生還した頼家は一連の出来事を聞いて激怒し、和田義盛らに時政誅殺を命じました。しかし、その密命も時政の知るところとなり、頼家は出家先の伊豆の修善寺に幽閉され、翌年死去。死因は、北条勢力による暗殺ともいわれています。
幕府創業の功臣を粛清する時政
鎌倉殿の13人~鎌倉幕府を動かした有力御家人~
鎌倉殿の13人の主要人物:北条時政
北条政子(まさこ)・義時(よしとき)の父。配流中の源頼朝を政子の婿(むこ)にとり、挙兵を助けました。幕府の創設にも尽力し、頼朝の死後は初代執権(しっけん)として実権を握りましたが、3代将軍実朝の排除計画に失敗し、引退に追い込まれました。
鎌倉殿の13人の主要人物:北条義時
父の北条時政とともに源頼朝の挙兵に従い、幕府の創設に尽力。頼朝の死後、時政を追い落として2代執権となり、2代将軍頼家、3代実朝の叔父として幕政の舵取りを行いました。「13人」の中心メンバーです。
鎌倉殿の13人:御家人
相模の豪族 三浦義澄(みうらよしずみ)
源頼朝に仕え、源平合戦や奥州征討で活躍。幕府でも重んじられました。
下野の豪族 八田知家(はったともいえ)
源平合戦で活躍。2代将軍時代から幕政に加わるようになりました。
侍所別当 和田義盛(わだよしもり)
三浦義澄の甥。早くから頼朝に仕え、初代侍所別当をつとめました。
武蔵の豪族 比企能員(ひきよしかず)
早くから頼朝に仕え、奥州征討では北陸道の大将をつとめました。
頼朝の側近 安達盛長(あだちもりなが)
頼朝の流人時代からの側近。2代将軍時代から重臣として幕政に参加しました。
武蔵の在地武士 足立遠元(あだちとおもと)
頼朝の父義朝の時代から仕えていた古参で、源氏将軍3代に仕えました。
侍所別当 梶原景時(かじわらかげとき)
石橋山の戦い以来、頼朝に仕え、2代侍所別当など要職を歴任しました。
鎌倉殿の13人:京都出身の官人
政所別当 大江広元(おおえのひろもと)
頼朝に招かれて鎌倉へ。初代政所別当をつとめ、守護・地頭の設置を進言しました。
問注所執事 三善康信(みよしのやすのぶ)
母が頼朝の乳母の妹。頼朝の招きで鎌倉に下り、初代問注所執事となりました。
京都守護 中原親能(なかはらのちかよし)
頼朝の側近として執政を補佐。京都の公家との交渉などで活躍しました。
幕府の吏僚 二階堂行政(に かいどうゆきまさ)
母が頼朝の母の叔母。早くから頼朝に仕え、公文所寄人や政所別当をつとめました。
鎌倉殿の13人の関連人物
鎌倉殿の13人の関連人物:源頼朝(みなもとのよりとも)(1147~99)
言わずと知れた鎌倉幕府の創設者。平治の乱に敗れた後、20年も流人生活を送っていましたが、平氏打倒の兵を挙げ、リベンジに成功、武家政権を樹立します。しかし、その絶頂のときに急死してしまいました。
鎌倉殿の13人の関連人物:北条政子(ほうじょうまさこ)(1157~1225)
北条政子は源頼朝の妻で、2代将軍頼家、3代実朝の母でもあります。頼朝の死後、尼となって幕政にかかわり、「尼将軍」と呼ばれました。承久の乱の際、動揺する御家人たちの結束をうながした演説は有名です。
鎌倉殿の13人の関連人物:源義経(みなもとのよしつね)(1159~89)
源頼朝の異母兄弟です。戦の天才で、源平合戦で大活躍をしましたが、その後、頼朝と確執が生じ、自害に追い込まれます。その悲劇的な生涯は「大陸に逃げ延びてチンギス・ハンになった」などの伝説を生みました。
鎌倉殿の13人の関連人物:源頼家(みなもとのよりいえ)( 1182~1204)
源頼朝の長子。父の死を受けて家督を継ぎ、2代将軍となりました。偉大な父を超えようと動きましたが、13人の合議制が敷かれたことで権力を失い、最後は無念の死を迎えます。もがき苦しみ続けた人生でした。
鎌倉殿の13人の関連人物:三浦義村(みうらよしむら)(?~1239)
「13人」のひとり、三浦義澄の子である義村は、権謀術数の渦巻く幕府において、梶原景時追放や和田合戦など数々の陰謀に関わったとされる重要人物です。承久の乱でも戦功を挙げ、北条氏に次ぐ地位に上り詰めました。
鎌倉殿の13人の関連人物:源実朝(みなもとのさねとも)(1192~1219)
源頼朝の二男、3代将軍です。公卿坊門信清(ぼうもんのぶきよ)の娘を妻に迎え、京都の文化に傾倒。それが鎌倉に京文化が伝わる契機となりました。将軍として懸命に命を繋ごうとしていましたが、甥の公暁に殺害されたのは不幸でした。
鎌倉殿の13人の関連人物:後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)(1180~1239)
82代天皇で、譲位後、23年にわたり院政を敷いた稀代の帝王です。武家による政治を容認できず、親政を目指してクーデターを画策。幕府の実権を握る執権北条義時と対決することになりました。
鎌倉殿の13人の関連人物:北条泰時(ほうじょうやすとき)(1183~1242)
北条義時の長男。承久の乱では、東海道軍の大将として叔父の時房とともに京都へ攻め上り、幕府の勝利に貢献。その後、初代六波羅探題として戦後処理にあたりました。
鎌倉殿の13人の関連人物:北条時宗(ほうじょうときむね)(1251~84)
5代執権北条時頼の子で、18歳で8代執権に。元寇という国家の一大事に直面し、終始強硬な態度でモンゴル軍をくい止めました。国難を切り抜けた英雄ですが、その苦労が祟ったのか、34歳の若さで亡くなっています。
鎌倉殿の13人の関連人物:北条時頼(ほうじょうときより)(1227~63)
北条氏による独裁体制の基礎を固めた人物で、武家政治の理想的指導者とみなされました。一方で禅の教えに傾倒して建長寺を創建したほか、引退後、水戸黄門のように姿を変えて諸国を遍歴したという話も伝えられています。
鎌倉殿の13人の関連人物:後醍醐天皇(ごだいごてんのう)(1288~1339)
大覚寺統から出た96代天皇です。即位すると院政を廃して、天皇の政治的権限を強めるなどの活動を開始。やがて幕府打倒の意思を固めていきます。強烈な個性の持ち主で、子が40人近くいました。
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2022年のNHK大河ドラマは『鎌倉殿の13人』。日本の中世は『平家物語』『太平記』などの記述を頼りにしてきましたが、不鮮明な部分が多くありました。近年、文献の研究が進み、軍記物が伝えてきたのとは異なる実像が浮かび上がり、いまもっとも注目される時代です。
鎌倉・室町時代を地図でたどるとともに、明らかになった新事実をクローズアップ。従来の鎌倉・室町観との違いを示しながら新たな視点で中世史を紹介。おなじみのわかりやすい解説と豊富な図解で読み解きます。
見どころ―目次から抜粋:鎌倉時代
■源氏の挙兵/宿命のライバル、平氏と源氏が全国各地で戦を繰り広げる
■一ノ谷の戦い/平氏の野望を打ち砕く 源義経の奇襲「鵯越の逆落とし」
■壇ノ浦の戦い/日本史上初の本格的海戦が勃発 戦局を左右したのは潮の流れ!
■奥州合戦/源平合戦で大活躍した源義経を兄の頼朝が排斥した理由とは?
■鎌倉幕府成立/全国に守護が設置され、頼朝の征夷大将軍任命で幕府が成立!
[中世史の最前線]あの肖像画は将軍ではない?源頼朝の本当の顔
■幕府の統治機構/封建制のはじまりとなった鎌倉幕府の統治システム
■13人の合議制/カリスマ源頼朝の死後、幕政の主導権を握った13人とは?
■比企能員の乱/「13人」のメンバーの北条時政が粛清の嵐で源氏将軍の独裁を阻む
■和田合戦/鎌倉で大規模な市街戦が勃発!北条義時と古参の御家人の戦い
■将軍断絶/3代で途絶えた源氏将軍の系譜 ますます勢いを増す北条氏の権勢
■後鳥羽上皇の企み/目指すは公武合体による親政 後鳥羽上皇がついに動き出す!
[中世史の最前線]言葉のイメージはよくないが、院政は悪いシステムではなかった?
■承久の乱/公武の力関係を大きく変える中世最大級の大乱が起こる!乱の結果、幕府が勢力を拡大し、公武二元体制を終わらせた
■執権政治/武家政権を安定させたのは稀代の名執権・北条泰時!
■文永の役/日本侵略の危機!そのとき幕府はどう動いた?
■弘安の役/モンゴル軍が再び襲来するも、またもや暴風雨によって失敗!
[中世史の最前線]元寇で「神風」は吹いたのか、吹かなかったのか?
■鎌倉新仏教/上流階級から庶民のものへ……次々に誕生した新しい仏教宗派
[中世史の最前線]鎌倉新仏教と旧仏教はどんな関係だった?
■得宗専制政治の確立/将軍にならず得宗として権力を掌握した北条氏一族
■両統迭立/皇位継承が不安定に……皇統が持明院統・大覚寺統に分裂!
■正中の変・元弘の変/幕府に戦いを挑み、2度も失敗……それでも信念を貫いた後醍醐天皇
■鎌倉幕府の滅亡/幕府方の足利高氏が謀反!新田義貞も活躍し幕府が滅びる
見どころ―目次から抜粋:室町時代
■建武の新政/武家軽視の方針が仇に……挫折した後醍醐天皇の夢
■中先代の乱/ついに後醍醐天皇と決別!政府打倒を目指す尊氏
[中世史の最前線]黒い馬にまたがる騎馬武者は足利尊氏ではない?
■南北朝の分立/朝廷が分裂して天皇も2人に!北朝と南朝の攻防がはじまる
■観応の擾乱/尊氏と直義の骨肉の争い!史上最大の兄弟喧嘩の顛末は?
■将軍権威の確立/武家と公家両方の頂点に立ち、幕府を全盛期に導いた足利義満!
■幕府統治機構の確立/鎌倉幕府を踏襲した統治機構が義満の時代にようやく確立する
■南北朝合一/南北に分裂していた朝廷が約60年のときを経てひとつに!
■日明貿易/優先すべきは名より実 巨大ビジネスをものにした義満
[中世史の最前線]足利義満は本当に天皇の地位を奪おうとしていたのか
著者紹介
山田 邦明(やまだ・くにあき)
1957年、新潟県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。東京大学史料編纂所教授などを経て、現在愛知大学文学部教授。日本中世史を専門とする。主な著書に『鎌倉府と関東』(校倉書房)、『日本の歴史8 戦国の活力』(小学館)、『日本中世の歴史5 室町の平和』『戦国のコミュニケーション』『人物叢書 上杉謙信』(以上、吉川弘文館)、『日本史のなかの戦国時代』(山川出版社)、『鎌倉府と地域社会』(同成社)などがある。
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※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

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