更新日: 2024年1月20日
奥州合戦へもつれ込んだ源氏の兄弟喧嘩~源義経を兄の頼朝が排斥した理由とは?~
源頼朝は源平合戦で大活躍した弟義経を自害に追い込んだ後、奥州藤原氏を討つべく、自ら進軍します。源義経をかくまっていた藤原氏は巨大な地方政権でした。
【要点はココ】
◎源頼朝は源義経を快く思っていませんでした。
◎梶原景時の讒言が源義経討伐のきっかけとなります。
◎頼朝は源義経を自害に追い込んだだけでは満足せず、奥州藤原氏も滅ぼしました。
奥州合戦のきっかけは源義経と頼朝の兄弟喧嘩
源平合戦で源氏を勝利に導いた源頼朝。彼が次に取り組んだのは実弟源義経の粛清(しゅくせい)です。
源頼朝は、自分に無許可で朝廷から官位を受けたり、戦場で独断専行が目立つ源義経を快(こころよ)く思っていませんでした。そこに側近の武将梶原景時(かじわらかげとき)から「屋島の戦いの際、源義経は自分勝手な采配で混乱を招いた」という讒言(ざんげん)があったため、源義経の排除に乗り出したのです。
頼朝に指揮官としての権限を取り上げられた源義経は謝罪しようと東下(とうか)しますが、鎌倉の入口で追い返されてしまいます。仕方なく京都に戻ると、頼朝は刺客を送ってきました。
いよいよ堪忍袋(かんにんぶくろ)の尾が切れた源義経は、頼朝討伐を決意します。ところが、源義経のもとに集まる兵はいませんでした。
結局、源義経は頼朝に追われ、かつて庇護(ひご)を受けていた奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)に助けを求めることになったのです。
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