更新日: 2024年1月22日
渋川が「日本のへそのまち」の理由は?「日本のまんなか」 は群馬にあった !
日本の中心「へそ」を主張する渋川市。
なぜ渋川が「へそ」なのか、そこには2つの理由がありました。
さらに、町で行われるユニークな「へそ祭り」も紹介します。
目次
渋川は「日本のまんなかへそのまち」!
日本列島のほぼ真ん中にある群馬県。さらに県の中央に位置する渋川市は、「日本のまんなかへそのまち」を宣言しています。伊香保温泉や水沢うどんなどで知られる渋川市は、古くから温泉をはじめとする観光業、工業、農業を主要産業に栄えてきました。
ではいつ頃からどのようにして、日本のへそと呼ばれるようになったのでしょうか。その理由は2つ、地理的な要因と歴史的な要因がありました。
【渋川が日本のへその理由①】地理的な要因
1つ目は地理的な理由。北海道・本州・四国・九州の日本の主要4島で、最北端の北海道宗谷岬と、最南端の鹿児島県佐多岬を円で結んだ中心に渋川市があるということ。実際には日本列島は沖縄をはじめ多くの島を含みますが、渋川市が言うところの「真ん中」は、イメージしやすい「主要4島の中心」と定義付けしています。
【渋川が日本のへその理由②】歴史的な要因
2つ目の歴史的な理由は、古くから伝わる渋川市の「へそ石の伝説」によるもの。それは遥か平安時代にさかのぼり、征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が、渋川を日本のへそと定めたといわれています。
延暦21(802)年、蝦夷征伐の帰り道、東山道の群馬駅に宿営した際、へそに似た大きな石を見つけてこう言いました。「数度の蝦夷征伐の旅で思うことは、あの山脈(上越の山々)を越してくると都への半ばである。この地こそ日本の中心、この石を臍石(ほぞいし)と定める」。つまり蝦夷から都へ帰る途中に、渋川がちょうど半分地点だと考え、たまたまそこで見つけた石を「へそ石」としたのです。
以後、村人が臍石を大切に信仰し、今でも日本のまんなかの印として守られています。これが「へそ石の伝説」で、よって渋川は将軍様が定めた正真正銘の「へそ」というわけなのです。
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