神子畑選鉱場跡の歴史
選鉱場として稼働しはじめた1919年以降、資材や作業員を運ぶため、低所と高所を結ぶ「インクライン」と呼ばれるケーブルカーが運行していたことがわかっています。
じつは神子畑選鉱場も、もとは800年ころから採掘がはじまり、1900年ころまでは銀と銅を産出していた鉱山でした。その後、衰退して1917年に閉山。いっぽうの明延鉱山では採掘鉱量が増え、従来の選鉱場が手狭になっていました。そこで1919年に、約6km離れた明延鉱山から運ばれる鉱石を選鉱する選鉱場として生まれ変わったのでした。山の斜面を利用した機械選鉱場は規模・産出量ともに東洋一を誇りました。24時間稼働する施設は夜中になると不夜城のようだったといいます。
ところが、明延鉱山は円高の急激な進行により競争力を失って1987年に閉山します。これに伴い、神子畑選鉱場も操業を終了しました。
神子畑選鉱場跡の現在の姿
再利用されることなく廃墟のようになっていました。2004年には、老朽化した建物が取り壊され、鉄筋コンクリートの基礎構造物だけが残されました。それが、現在見ることのできる円盤状の建造物とひな壇状の建造物です。
神子畑選鉱場跡は2006年、日本の近代化に貢献した産業遺産施設として整備されました。現在は史跡公園となり、無料で見学できます。
神子畑選鉱場跡の見どころ
事務所として使われていた「ムーセ旧居(もとは技師の宿舎)」が資料館として活用されているほか、明延鉱山と神子畑選鉱場を結んでいた「明神電車」(めいしんでんしゃ)も展示されています。
鉱山と選鉱場を運行した電車
1945年から1985年まで、明延鉱山と神子畑選鉱場の間を明神電車が運行していました。電車には、鉱石の輸送用車両と鉱山従業員の通勤車両がありました。
人員専用車両の料金は1952年から1985年まで、ずっと1円だったので、「1円電車」の愛称で親しまれていたといいます。
神子畑選鉱場跡が注目されたのはなぜ?
神子畑選鉱場跡に人が集まるようになったのは、2000年代に起こった廃墟ブームと関係があります。長崎県の軍艦島(端島(はしま))に上陸できるツアーが2009年に解禁になり、廃墟めぐりは一気に市民権を得ました。その後、軍艦島は2015年に世界文化遺産に登録され、文化的な価値が認められました。神子畑選鉱場跡もこの流れに乗って人気が高まっていったのです。
『兵庫のトリセツ』好評発売中!
日本の各県の地形や地質、歴史、文化、産業など多彩な特徴と魅力を、地図を読み解きながら紹介するマップエンターテインメント。兵庫県の知っているようで知られていない意外な素顔に迫ります。思わず地図を片手に、行って確かめてみたくなる情報を満載!
●地図で読み解く兵庫の大地
神戸市の背後にそびえる六甲山の誕生の秘密、新温泉町や香美町で体感する山陰海岸ジオパーク、明石市を通る標準子午線はじつは少しズレている、地形と地質からひもとく日本最古の名湯・有馬温泉、地形で読み解く高級住宅地「芦屋市六麓荘町」の魅力、芦屋川や住吉川など阪神間の河川に天井川が多い理由・・などなど兵庫のダイナミックな自然のポイントを解説。
●兵庫を走る充実の交通網
「神戸線」の名を冠した阪神間の交通網の成り立ち、地味だけど速い!人気!智頭急行の秘密、意外な形で兵庫県内に残る弾丸列車計画の線路予定地、人気のハイキングコースとなった福知山線の線路跡、地元民も予想外だった新幹線相生駅ができたワケ…などなど、意外と知られていない兵庫の交通トリビアを厳選してご紹介。
●兵庫の歴史を深読み
丹波市で発見された恐竜の化石からわかる古代の兵庫、日本のはじまりは兵庫から!淡路島に伝わる国生み神話、古墳の数が日本一!なぜ兵庫には古墳がたくさんあるのか、清盛が築いた日本の首都・福原京の今むかし、石をどうやって山頂へ 朝来市の「天空の城」の謎、そもそも何 なぜここに 高砂市にある石の宝殿の謎、兵庫港と神戸港の違いとは その長くて深い歴史、兵庫は重要な拠点だった 消えた軍事遺跡を歩く・・・
などなど、思わず「そうだったのか」と納得のネタに尽きない兵庫の歴史。知れば知るほど兵庫の歴史も面白い。
『兵庫のトリセツ』を購入するならこちら
※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。
まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!