更新日: 2024年1月20日
三好長慶、赤松満祐、 波多野秀治…兵庫の有力大名・武将たち
「応仁の乱」から戦国時代終焉まで、兵庫県は赤松氏や山名氏など有力武将の所領争奪の舞台でした。武将たちの没落と台頭の歴史をみてみましょう。
赤松氏:赤松円心、赤松満祐、赤松政則
中世の兵庫県を舞台に活躍した武将といえば、まずは赤松氏の名前が挙がります。4代当主の赤松円心(則村:のりむら)は鎌倉幕府打倒の働きで手柄を立て、足利尊氏から播磨守護職を授けられました。以降、赤松氏は戦国時代末まで、播磨で一定の勢力を維持します。
有力家臣には、赤松氏の分家にあたる小寺氏と、のちに赤松氏を裏切る浦上氏がいます。なお、姫路城を本拠とした小寺氏8代当主の小寺政職(こでらまさもと)に仕えていたのが、若き日の黒田孝高(よしたか:官兵衛)です。
赤松氏は播磨だけでなく備前、美作も治めた室町時代初期
室町時代初期、赤松氏は播磨のみならず、備前(現在の岡山県東南部)・美作(現在の岡山県東北部)3国の守護となりました。当時の兵庫県は、伯耆(ほうき:現在の鳥取県中部・西部)守護の山名氏、丹波を領国とする細川氏の3強が割拠する状況が生まれていました。
赤松満祐の「嘉吉の変」で没落も赤松政則が再建を果たす
1441年に赤松満祐(あかまつみつすけ)が将軍の足利義教を京で暗殺(嘉吉の変)したことで状況は一変します。赤松氏は幕府軍の追討を受けて没落し、領地の多くは、但馬守護の山名持豊(もちとよ)(宗全)とその一族に与えられたのです。
それでも「応仁の乱」後、赤松政則が赤松家の再興をはたし、山名氏から3国を奪還。山名氏は播磨から撤退し、丹波、摂津、淡路は細川氏が支配しました。
赤松氏の勢力は衰え播磨は別所氏、丹波は波多野氏が台頭
播磨では、赤松氏の分家にあたる別所就治(なりはる)・安治(やすはる)父子を中心とする別所氏が台頭。丹波では守護代を務めていた波多野氏が八上城(丹波篠山市)に本拠を置き、細川氏から自立します。
三好長慶が勢力を拡大するも信長の台頭で力を失う
摂津でも細川氏の影響力は小さくなり、細川氏配下の三好長慶(みよしながよし)が支配を開始します。阿波、淡路、讃岐に加え、播磨、丹波、山城、和泉など畿内にも大勢力を築いていきます。
同じころ、織田信長が上洛を開始。三好氏は本願寺勢力と手を組み、打倒信長勢の急先鋒となります。ですが、やがて信長勢力が優勢になると離反する国人が増え、畿内で孤立。戦死したり、信長の傘下に入るなどで、畿内における勢力を失っていきました。
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