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更新日: 2024年9月23日
ペリーはなぜ下田を開港の舞台としたのか?
1853年と1854年の2度にわたり、黒船で日本に来航したペリー。
鎖国中の日本に開国を迫り、最初に開港されたのは下田港でした。
当初、要求になかった下田港が開港場となった理由とは何だったのでしょうか?
ペリーが下田港を最初に開港した理由
1853(嘉永6)年6月、アメリカの東インド艦隊司令長官兼米使提督であるマシュー・ペリーは、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、幕府に開国を要求する大統領の国書を受け取らせました。
鎖国を続けたい幕府は対応に苦慮し、一旦ペリーを退去させて翌年まで回答を延期。1年後の1854(安政元)年1月、ペリーは軍艦9隻を率いて再び来航し、約束の返事を迫りました。幕府は苦渋の決断の末、同年3月3日に「日米和親条約(神奈川条約)」を結び、下田港と北海道の箱館港の2つを開港場とし、外国船の出入りを許したのでした。
しかし、もともとペリーが開国を要求した港に下田港は含まれていませんでした。下田港が開港場として選ばれた理由は何だったのでしょうか。
ポイントは、下田が東京や横浜のような湾内にある港ではなく、外洋に面した港だったこと。そもそもペリー来航の目的は、日本との交易はもちろん、太平洋を隔てて中国との航路を確保することや、捕鯨船への食料や薪炭の補給、乗員の休憩場、漂流した場合の救助保護拠点を確保することでした。
したがって、外洋に面している下田の地勢はペリーの目的に適していたと考えられます。また、幕府側としても、当初開港を迫られていた浦賀に比べ、将軍のいる江戸から距離がある下田なら許可してもいい、という思惑がありました。
※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。
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