駿府城下町の区画分けと町名の由来
城下町に住む町人たちは、職種に応じて家康に奉仕することが義務付けられ、与えられたスペースの中で商売することが許されていました。
最も整然と区画された場所は、大手門の前に開けた商工業者の居住区。古地図を見ると、この辺りは美しく碁盤目状に区割が行われていたことがわかります。
また、城下町の商人や職人は職業ごとに決められた町に住みました。紺屋町(こうやまち)、呉服町(ごふくまち)、両替町(りょうがえまち)など、現在もその名残がうかがえる地名が散見されます。
駿府城下の区分け
駿府城下町は駿府城を中心に、西側に町屋町が、東側に武家屋敷地が配され、寺町は町屋町の西・南の端と浅間神社付近に集中していました。
石碑に刻まれた町名
市内には「駿府九十六ヶ町」の各所在地に38基の町名碑が設置され(2020年度時点)、その名残をとどめています。
駿府城下町の外郭に寺社を配置した理由
一方、武士は駿府城の周辺に配置された武家屋敷に住み、城下町の外郭には寺社が設けられていました。寺社が郊外に配置されたのは、戦時体制の際、境内の広い空間を利用して兵を駐屯させ町や城を警護する、という戦略的な理由からだと想像できます。
特に安倍川を越えて侵入する敵を食い止めるため、城の南西に位置する寺町には多くの寺院を集中させました。
駿府は世界屈指の大都市だった
家康は江戸から駿府に移った際、多くの家臣も引き連れてきました。同時に、駿府に城や城下町を建設するため、京都や伏見などから大工・鍛冶屋・車屋・左官なども呼び寄せました。当時の駿府は、10万人以上が暮らす世界屈指の大都市だったといいます。
東海道を行き交う大名や公家、外国の使節たちも、家康に謁見するため駿府を訪れたそうです。彼らの記録などからも、当時の駿府が世界から注目されていたことがうかがえます。
家康没後は人口が1万数千人になりましたが、以後も全国の大名や旗本が勤務する江戸幕府直轄の地であり、日本全国から人々が訪れました。全国各地に駿府に関する記録が残されているのは、その名残です。
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Part.3 静岡で動いた歴史の瞬間
・静岡最古の古代人は愛鷹山付近にいた!
・日本考古学の聖地・登呂遺跡
・日本書紀に見る静岡とヤマトタケルの伝説
・源頼朝も流された流刑地伊豆
・下田が開港の舞台になったのはなぜか
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・家康の遺体は日光ではなく久能山にある?
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