駿府城を徳川家康が居城に選んだわけ
徳川家康は、なぜ居城に駿府城を選んだのでしょうか?
徳川家康にゆかりのある僧侶・廓山和尚(かくざんおしょう)によると、家康自身が次のような理由を挙げていたといいます。
まずは、幼少期を過ごした心の故郷だったこと。徳川家康は幼い頃、駿府に本拠地を置いた大名・今川義元のもとに預けられ、19歳まで過ごしています。もう一つの理由が、富士山の眺望や温暖な気候、米が天下一品であること。
これらが駿府城で余生を過ごす大きな理由になったようです。
駿府城の立地と徳川家康の幕藩体制の確立
もちろん、個人的な理由だけではなく、徳川家康は当時の政治状況も踏まえていました。駿府城の西には大井川や安倍川などの河川があり、東には箱根山と富士川の難所があります。その立地は、戦略的観点で優位だったことを意味しています。
駿府城改修の2年前である1605(慶長10)年、徳川家康が息子・秀忠に将軍職を譲った時、大坂では未だ豊臣家が隠然たる実力と影響力を持っていました。その影響力を考慮し、関東防衛のための拠点として、徳川家康は駿府の地に巨大城郭を築いたのです。
また、参勤交代で東海道を利用する諸大名が徳川家康に拝謁するのに駿府はちょうど便利な位置にあり、彼らは駿府を通る際に壮大な駿府城を見ることで脅威を感じ、同時に、家康と江戸幕府に対する畏怖の念を覚えたはずです。
つまり駿府城は、幕藩体制の確立に一役買っていたと言えるのです。
駿府城の天守台発掘調査と今後
その後、静岡市による天守台発掘調査では、家康時代の天守台の下から、豊臣政権が築城に関わったとみられる天正期天守台や金箔瓦が発見されています。
さらに大規模な天守に併設される「小天守(しょうてんしゅ)」の小天守台や、天守台と小天守台をつなぐ石垣も発掘されており、16世紀末の城郭で天守台と小天守台を同時に確認できたのは全国初。今後もさらなる発見が期待されています。
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・日本考古学の聖地・登呂遺跡
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