

更新日: 2024年1月22日
伊豆への流刑時代に源頼朝が学んだこととは~静岡各地に残るゆかりの地~
その昔、伊豆は政争に敗れた貴族たちが流刑される場所でした。
そんな中、流人の一人、源頼朝が当地で東国の武士をまとめ上げました。
この出来事をきっかけに中世が動き出します。
目次
流刑地・伊豆と律令制の刑罰
律令制度の律には、笞(ち)・杖(じょう)・徒(ず)・流(る)・死(し)の5種類の刑罰が定められており、流刑とは、都から遠く離れた配所に送られ一定期間労役に服するものを指しました。
配所には、罪の軽重により遠流(おんる)・中流(ちゅうる)・近流(きんる)の3種類があり、伊豆国は安房・常陸・佐渡・隠岐・土佐とともに罪の重い遠流の地とされました。ちなみに、古代の伊豆国は生産力が低く「下国」と呼ばれ、国力に応じて分けられた階級のうち、一番低い位の国でした
伊豆は古くからの流刑地
『続日本後紀』承和9年7月28日条に、「貴族の橘逸勢が本姓を奪われ非人と改められて伊豆国への流罪」とあることから、平安時代初期には伊豆が流刑地であったことがわかります。
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