更新日: 2024年1月20日
登呂遺跡はなぜ日本考古学の聖地と呼ばれるのか?
国の特別史跡に指定されている登呂(とろ)遺跡。
日本初となる弥生時代の水田跡の発見が、戦後日本の考古学にとっていかに「特別」なものだったのでしょうか。
その背景を紐解いていきましょう。
登呂遺跡発見の背景と調査の開始
登呂遺跡が発見されたのは、第二次世界大戦中の1943(昭和18)年。戦闘機のプロペラをつくるための軍需工場を建設する際に、土の中から土器や木製品などが偶然見つかったことに端を発します。
戦争中だったため、当時は短期間の簡単な発掘調査しか行われませんでしたが、1945(昭和20)年に終戦を迎えると、1947(昭和22)年から1950(昭和25)年にかけて、本格的な調査が開始されました。
調査の結果、12棟の住居、2棟の高床倉庫、8万㎡の水田跡が発見され、弥生時代後期にあたる約2000年前の稲作を中心とした集落の姿が明らかになりました。1951(昭和26)年に最初の復元住居をつくる際には、住居や高床倉庫の形について、銅鐸(どうたく)や土器に描かれた絵などをもとに議論が重ねられました。
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