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保科正之(ほしなまさゆき)

江戸時代前期の陸奥国会津藩主。父は徳川2代将軍の秀忠。子供のころに信濃国高遠藩主の保科正光の養子となり、正光の死後高遠藩主を継ぐ。異母兄にあたる徳川家光に従って上洛し、その後出羽山形、会津を領とする。家光が残した遺命として、まだ幼かった4代将軍家綱の補佐として幕政を治めた。いっぽうで自身の会津藩の藩政にも力を注ぎ、家臣の編成、行政整備、農民の生活向上策、現在の年金制度にあたる高齢者扶養手当など、領民の生活向上などを行った。これらは「会津家訓十五箇条」として会津藩政の基礎となる。

松平定信(まつだいらさだのぶ)

江戸時代中期の白河藩藩主。父は8代将軍徳川吉宗の次男、田安吉武。白河藩主松平定邦の養子となり、家督を継ぐ。天明の飢饉の際は、食料の手配、財政再建などで困窮する領民を救い、荒廃する藩政を立て直す。それらの功績が諸大名にも知れ渡り、徳川御三家および一橋家の推薦で老中首座となる。その後、「寛政の改革」としてさまざまな政策で幕政の立て直しを行った。

三好長慶(みよしながよし)

戦国時代の武将として畿内、四国を支配。父は阿波守護の細川氏に仕えた三好元長(もとなが)。細川晴元(はるもと)を管領に擁立して晴元政権を誕生させたが、のちに晴元と対立し謀殺される。
嫡男であった長慶は、翌年12歳ながら軍勢を率いて上洛。のちに晴元と和睦して摂津国守護代になると、晴元政権下で次第に頭角を現わし、武力で勢力を拡大していく。
ついには、父の敵である晴元に反旗を翻し、翌年、晴元と将軍・足利義輝(よしてる)を追放。幕政の実権を掌握し三好政権を樹立した。5年後に義輝と和解して京へ迎え入れるもふたたび追放するなど、義輝との和解と追放を繰り返した。
また、堺を基盤としたことで堺商人との結びつきが強くでき、貿易による収益で財政を安定させた。

苅部清兵衛(かるべ せいべえ)

明治初期に本陣が廃止となるまでの270年間続いた名家の当主名。初代は後北条氏の家臣とされる。
東海道の宿場、保ヶ谷宿の本陣・名主・問屋の三役を代々の当主がその任に当たっていた。10代当主の悦甫は、初代横浜総年寄の一人に任命され、横浜港の開港、「横浜道」の整備、河川工事などに尽力し、貿易歩合筋制度の導入により横浜の財政基盤を確立、現在の横浜の形作りに大いに貢献した。

鎌倉公方(かまくらくぼう)

室町幕府が設置した地方行政機関である鎌倉府の長官。足利尊氏の二男足利基氏が関東支配のために鎌倉に移ったのに始まり、以降世襲として足利氏が続く。
公方は関東の10カ国(相模、武蔵、安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)、上野(こうずけ)、下野(しもつけ)、伊豆、甲斐(かい))を統治し、その権力の大きさから独立心が強く、室町幕府に対立的であった。
4代・足利持氏(もちうじ)は、幕府から攻撃され、下総国古河(しもうさのくにこが)へと逃亡。以降は古河公方を名乗るようになり、鎌倉公方の名称は消滅した。

関東管領(かんとうかんれい)

鎌倉公方の補佐的役割(または目付け役)として室町幕府におかれた職名。
鎌倉公方足利基氏の時代に上杉憲顕が任じられ、以降上杉氏が世襲した。関東管領・上杉禅秀の時代に鎌倉公方・足利持氏と対立し、関東管領職を更迭される。このとき禅秀は、関東の国人衆に協力を呼びかけ、持氏に対し反乱を起こす(上杉禅秀の乱)。乱は幕府が持氏を支援し、禅秀の敗死によって終結する。
鎌倉公方の消滅後は、関東管領が実権を握ることとなる。

関東管領(かんとうかんれい)

鎌倉公方の補佐的役割(または目付け役)として室町幕府におかれた職名。
鎌倉公方足利基氏の時代に上杉憲顕が任じられ、以降上杉氏が世襲した。関東管領・上杉禅秀の時代に鎌倉公方・足利持氏と対立し、関東管領職を更迭される。このとき禅秀は、関東の国人衆に協力を呼びかけ、持氏に対し反乱を起こす(上杉禅秀の乱)。乱は幕府が持氏を支援し、禅秀の敗死によって終結する。
鎌倉公方の消滅後は、関東管領が実権を握ることとなる。

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