トップ > カルチャー > 

目次

古河市兵衛(ふるかわいちべえ)

明治時代の実業家。古河財閥の創業者。京都出身。幼名:木村巳之助、幸助。養子は陸奥宗光の二男・潤吉。銅山王。1858年、“小野組”に勤める古河太郎左衛門の養子となり、市兵衛と名乗って、“小野組”の生糸買い付けに従事。明治維新の頃には、小野組糸店支配人として生糸貿易を指揮したり、東京築地に器械製糸場を開設する一方、鉱山経営も担当。銅山を中心とした経営の多角化にも着手し、有能な番頭としても大活躍した。

ゴルバチョフ

ソビエト連邦およびロシア連邦の政治家。ソ連最後の最高指導者。ソ連共産党中央委員会書記長、初代最高会議議長、初代大統領などを歴任した。愛称:ゴルビー。1985年、党書記長に就任し、停滞していたソ連の政治経済の抜本的改革を目指して『ペレストロイカ(改革)』と『グラスノスチ(情報公開)』を断行。また、東欧の民主化革命を支持して冷戦を終結させた。国内の政治勢力が保守・改革で分裂する中、共産党の一党独裁制とソビエト連邦そのものを終結・崩壊へと導くこととなった。

新島襄(にいじまじょう)

江戸時代から明治時代のキリスト教教育者。同志社創立者。本名:七五三太(しめた)。後に、敬幹(けいかん)と改名した。1856年、選抜されて蘭学を学び、1860年には江戸・築地(つきじ)の軍艦操練所に入り、航海実習に従事。1864年、アメリカ船で箱館から海外に脱出、翌年、ボストンに到着。船主夫妻の庇護を受け、1866年に受洗。1871年、明治政府から「米国留学」の免許を受け、1872年3月から翌1873年9月にかけて「岩倉遣外使節」に随行した。

内村鑑三(うちむら かんぞう)

明治時代から大正時代のキリスト教思想家、伝道者、文学者。日本の宗教や教育、思想や文学などに広く影響を与えた。幼少期より儒学や英語を学ぶ。1873年に上京し、有馬学校英語科入学。翌年、東京外国語学校へ。1877年、札幌農学校に入学し、クラーク博士の「イエスを信ずる者の契約」に署名。翌年、宣教師ハリスより受洗。1884年に渡米し、大学や神学校で学び帰国。新潟や大阪、熊本などの学校に勤め、その間に数々の著作を刊行。雑誌も創刊し、キリスト教に基づいた社会批判や文明批評を展開した。

田山花袋(たやまかたい)

小説家。本名:録弥(ろくや)。栃木県館林町(現:群馬県館林市)生まれ。12歳から漢学塾で漢詩文を学び、14歳で漢詩集を編む。また、桂園派の和歌や西洋文学にも親しんだ。尾崎紅葉(おざきこうよう)のもとで修行し、小説「瓜畑」を発表。1892年より花袋と号した。1896年に国木田独歩、島崎藤村と知り合い、翌年、独歩や柳田國男らと『抒情詩』を刊行。編集主任となった「文章世界」や小説「布団」で“自然主義文学”を確立するが、大正に入ると自然派が衰退。しかし、自身は次々に作品を発表した。

萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)

大正時代から昭和時代の詩人。“日本近代詩の父”。群馬県生まれ。中学時代から短歌などの創作活動を始める。1913年、北原白秋(きたはらはくしゅう)主宰の「朱欒(ザンボア)」に詩を発表。そこで室生犀星(むろうさいせい)と知り合い、生涯を通して親交を深めた。山村暮鳥(やまむらぼちょう)を含めた3人で、詩や宗教、音楽を研究する「人魚詩社」を設立。機関誌や詩集を続々と創刊・刊行し、従来の誌の概念を打ち破り、新しい風を吹き込んだ。特徴は鋭い感受性。人生に悩み、作品を発表出来ない時期もあった。

護良親王(もりよししんのう)

鎌倉時代末期から建武の新政期の皇族、武将、征夷大将軍、僧侶、天台座主。後醍醐天皇の皇子。興良親王(おきよししんのう)の父。1314年、6歳で梶井門跡に入る。1325年に門跡を継承し門主、1327年には天台座主となる。『元弘の乱』が起こり、還俗して護良と改名、吉野で挙兵した。建武の新政では征夷大将軍に任命されるが、足利尊氏と折り合いが悪く、将軍を解任され、政治的地位も失くし、鎌倉に幽閉される。『中先代の乱』で殺害された。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30

記事をシェア

※掲載の情報は取材時点のものです。お出かけの際は事前に最新の情報をご確認ください。

まっぷるトラベルガイド編集部は、旅やおでかけが大好きな人間が集まっています。
皆様に旅やおでかけの楽しさ、その土地ならではの魅力をお伝えすることを目標に、スタッフ自らの体験や、旅のプロ・専門家への取材をもとにしたおすすめスポットや旅行プラン、旅行の予備知識など信頼できる情報を発信してまいります!

エリア

トップ > カルチャー > 

この記事に関連するタグ