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上杉憲実(うえすぎのりざね)

室町時代中期の武将、守護大名。関東管領、上野国・武蔵国・伊豆国守護。山内上杉家8代当主。下野の足利学校を再興した。関東管領・上杉憲基(うえすぎのりもと)の後継者として偏諱を受け、憲実と名乗る。10歳で関東管領、同時期に上野・武蔵・伊豆の守護に。足利義教の室町幕府第6代将軍就任を不満に思った、主君の足利持氏の挙兵を思いとどまらせ、確執が深まる。『永享の乱』で不本意ながら持氏を討ち、出家。しかし、再び勢力争いに巻き込まれるが、『享徳の乱』の後に政治の中心とは離れた生活を送った。

大内政弘(おおうちまさひろ)

室町時代中期の武将、守護大名。大内氏第14代当主。周防・長門・豊前・筑前と安芸・石見の一部を領有。元服時に室町幕府第8代将軍・足利義政より偏諱を賜い、政弘と名乗る。『応仁の乱』では西軍の主力だったが、領国が奪われるなどしたため、室町幕府第6代将軍・足利義政の和睦の要請を受諾。領国を取り戻し、権力強化や領国の再建に力を注いだ。また、日明貿易での明との交流、歌人や雪舟など画人との交流など、文化にも造詣が深かった。

細川勝元(ほそかわかつもと)

室町時代中期の武将、守護大名。室町幕府管領。土佐・讃岐・丹波・摂津・伊予守護。『応仁の乱』東軍総大将。1442年、13歳で家督を継ぎ、室町幕府第7代将軍・足利義勝から偏諱を受け、勝元と名乗る。16歳で管領に。その後、3度・通算23年間も管領職に就き、幕政に影響力を持った。山名宗全との争いを避けるため、山名氏の娘を正室に迎えたが、徐々に敵対関係となり、『応仁の乱』が起こる。宗全が病没して優位に立つも、間もなく死去。

畠山義就(はたけやまよしなり)

室町時代後期から戦国時代前期の武将、守護大名。“よしひろ”ともいわれる。河内・紀伊・山城・越中守護。義夏(よしなつ)から改名。1448年、室町幕府第8代将軍・足利義成(後の義政)から畠山氏の後継者とされ、元服して義成の偏諱を受け、“畠山義夏”と名乗る。従兄弟の畠山弥三郎・政長らと対立し、家督争いが起こる。領国・河内を中心に戦いを繰り返したが、1455年、義就と改名し、家督を継承。その後も争いは続き、『応仁の乱』へと発展。乱の後も家督争いは続いた。

足利義材(あしかがよしき)

室町幕府第10代将軍。初名は義材、その後、義尹(よしただ)、義稙(よしたね)と改名。1489年、第10代将軍に就任。管領・細川政元と対立し、1493年に『明応の政変』で将軍職を廃され幽閉される。しかし、京都回復・将軍復職を目指し、約13年半も逃亡生活を送った。大内義興の支援を得て、1508年に将軍職に復帰するも、管領・細川高国と対立し、京都を出奔して将軍職を奪われた。逃亡先の阿波国で死去。

細川政元(ほそかわまさもと)

室町時代後期から戦国時代の武将、守護大名。細川勝元の子。室町幕府管領。摂津・丹波・土佐・讃岐守護。細川氏12代当主。室町幕府第10代将軍・足利義材を追放して第11代将軍・義澄(よしずみ)を擁立し、政権を掌握する『明応の政変』を起こす。修験道(しゅげんどう)に凝り、妻を娶らなかったため、九条政基(くじょうまさもと)の子・澄之(すみゆき)と細川義春(ほそかわよしはる)の子・澄元(すみもと)を養子にとった。このため、家臣が澄之・澄元の二派に分裂。家督争いが起こり、澄之派に暗殺された。

浦野匡彦(うらのまさひこ)

元二松学舎大学学長・日本遺族会副会長。1910年、群馬県吾妻郡生まれ。“上毛かるた”の生みの親。1946年、満州から故郷・群馬へ引き揚げ。群馬の子どもたちに愛すべき故郷・群馬の歴史や文化を伝えたいと、かるたでの伝承を発案。上毛新聞紙上で構想を発表し、県内から題材を広く募る。翌年、群馬の名所旧跡や出身者などを取り上げていた44枚の郷土かるた“上毛かるた”が誕生した。

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