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足利義嗣(あしかがよしつぐ)

室町時代の武家、公卿。室町幕府第3代将軍・足利義満の子。第4代将軍・足利義持(あしかがよしもち)の弟。幼名:鶴若丸。父から寵愛を受け、元服前から要職に任ぜられた。義満に皇位簒奪(こういさんだつ)計画があったとされ、皇位継承者と考えられていた。が、元服3日後、義満は病に伏せ、死去。義持が4代将軍となり、兄弟の対立が深まることとなった。『上杉禅秀の乱』に呼応して挙兵を企てるも失敗。相国寺(しょうこくじ)に幽閉され、殺された。

平清盛(たいらのきよもり)

平安時代末期の武将、公卿。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡男。『保元の乱』で後白河天皇側で勝利に貢献、『平治の乱』でも勝利し、武士初の太政大臣となり、日本初の武家政権を樹立。すると、後白河法皇の平氏への弾圧が強まったため、『治承三年の政変』で法皇を幽閉。政権を完全掌握した。ただ、公家・武士・寺社などが反発を強め、1180年、以仁王(もちひとおう)の挙兵から『治承・寿永の乱』となり、福原遷都や南都焼打ちで対抗。さらに反感を買い、全国が内乱状態に陥る中、病没した。

馬場信房(ばばのぶふさ)

戦国時代の武将。教来石景政(きょうらいしかげまさ)、馬場信春(ばばのぶはる)。武田四天王の一人。通称:民部少輔、美濃守。甲斐国の守護大名・戦国大名である武田信虎、その息子・信玄、信玄の息子・勝頼の三代に渡り、武田氏に仕えた重臣。『長篠の戦い』で敗死。武田氏に仕えた40数年間、多くの戦に参加したが、『長篠の戦い』までかすり傷一つ負わなかったという逸話がある。

角倉了以(すみのくらりょうい)

戦国時代から江戸時代初期の豪商。“水運の父”。京都出身。医者の家系で金融業も営み、“京の三長者”と呼ばれる裕福な家に生まれる。実業家としての道を選び、朱印船貿易の開始とともに安南国(現在のベトナム中部)との貿易を行なった。一方、土木工事の技術の力量も持っており、山城国の大堰川・高瀬川を私財を投じて開削。また、江戸幕府の命で、富士川・天竜川・庄内川などの開削も行なった。

廓山和尚(かくざんおしょう)

江戸時代前期の仏教家。浄土宗(鎮西派)。甲斐国出身。甲斐国甲府の尊体寺で出家し、江戸・芝の増上寺にて11世円也・12世存応に師事。1608年、法華宗の日経との『慶長宗論』を行なう(徳川家康が両者を江戸城で対決させた論争)。家康の帰依を受け、家康の生母が葬られている江戸・小石川の伝通院(でんずういん)の中興開山となる。浄土宗諸法度の草案作成にも携わった。1622年、増上寺13世に就任。

今川義元(いまがわよしもと)

戦国時代の駿河国・遠江国の守護大名、戦国大名。今川氏第11代当主。武田信玄や北条氏康と義理の兄弟(姉妹との婚姻関係)。4歳で仏門入り、得度して栴岳承芳(ぜんがくほうしょう)となったが、今川氏を継ぐため還俗。征夷大将軍・足利義晴から偏諱(へんき)を賜り、義元と名乗った。駿河・遠江から三河や尾張の一部にまで領地を拡大。抗争状態の大名たちと“同盟”を結んで関係を強化し、今川家の最盛期を築いた。1560年、『桶狭間の戦い』で織田信長軍に敗れ、討ち取られた。

本多正純(ほんだまさずみ)

安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。江戸幕府の老中。本多正信の嫡男。正信が反逆していた徳川家康のもとに復帰した際、共に家康の家臣となる。『関ヶ原の戦い』に参加し、その後、家康の命令で石田三成の身柄を預かった。家康が江戸に幕府を開くと重用される。家康と父・正信が没した後は、第2代将軍・徳川秀忠の側近となり、年寄(後の老中)となる。が、秀忠や秀忠の側近から疎まれるように。加増を固辞するなどした正純の所業に秀忠が激怒。出羽国横手に幽閉され、死去した。

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