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源義朝(みなもとのよしとも)

平安時代末期の武将。源為義の長男。源頼朝・源義経らの父。一族内紛により凋落したため、都から東国へ下向。東国で勢力を伸ばし、再び都へ戻って、1153年に31歳で下野守に。1156年の『保元の乱』では、父や弟らと袂を分かち、後白河天皇方として東国武士団を率いる。1160年の『平治の乱』では、藤原信頼と組んで三条殿を襲撃。しかし、後白河院政派と二条天皇親政派などの思惑で対立軸が変化すると、一転、賊軍となり、平家らの官軍に敗北した。

田沼意次(たぬまおきつぐ)

江戸時代中期の旗本、大名、江戸幕府老中。遠江相良藩の初代藩主。1719年、江戸生まれ。江戸幕府第9代将軍徳川家重・第10代将軍家治の時代に、側用人と老中を兼任して幕政を主導した。側用人となった1767年から失脚する1786年の間は『田沼時代』と呼ばれることが多い。この時代、伝統的な緊縮財政策ではなく、商業資本の利用などを推奨。また、政治が腐敗しており、賄賂政治の代名詞でもある。

鈴木道雄(すずきみちお)

技術者、実業家、政治家。輸送用機器製造メーカーのスズキを1代で築き上げた。同郷出身の豊田佐吉や本田宗一郎と共に、日本を代表する自動車メーカー創業者の1人。1887年、静岡県浜名郡芳川村生まれ。1901年に大工職人に弟子入りし、建築技術を学ぶ。その後、弟子入り先が織機製作に転業し、織機の製作技術も学ぶ。1909年、鈴木式織機製作所を創業。1920年に株式会社鈴木式織機を設立。1930年には浜松市会議員選挙に立候補し、当選。市政の発展に尽くす。

金原明善(きんばらめいぜん)

明治時代の実業家。静岡県浜名郡和田村村長。1832年、遠江国長上郡生まれ。天竜川の治水計画の基礎となった治水事業をはじめ、天竜川上流の官有地に292万本のスギやヒノキの苗木を実費で献植した流域の植林事業、運河を利用した材木などの輸送や農業・工業の発展のための疏水事業、北海道開拓事業の支援などを行ない、地元静岡県や日本の発展に寄与した。

エドワード・ウォーレン・クラーク

アメリカ合衆国の教育者、牧師。明治時代、日本で教育者として活動。1849年生まれ。大学時代、畠山義成(はたけやまよしなり。後に文部官僚)と出会い、日本に関心を持つ。1871年、「駿府学問所」(後の「静岡学問所」)の教員となるため、来日。1872年、駿府城内に住居の日本初石造り洋館(クラーク邸)が完成。同年、「静岡学問所」廃止。私立「英学校賤機舎」となる。1875年帰国。1878年、日本での経験をもとに『Life and adventure in Japan』(日本滞在記)を出版した。

飯尾豊前守(いのおぶぜんのかみ)=飯尾連龍(いのおつらたつ)

戦国時代の武将。今川氏の家臣。遠江国曳馬(とおとうみのくにひくま)城主。飯尾連龍(いのおつらたつ)・飯尾致実(いのおむねざね)ともいわれる。1560年の桶狭間の戦いで今川義元が討たれた後、松平元康(後の徳川家康)を通じて織田信長・徳川家康方と内通。それを、義元の息子・氏真に知られ、曳馬城を攻められるも和睦。しかし、3年後、氏真に謀殺された。

北条高時(ほうじょうたかとき)

鎌倉時代末期の武将。北条氏得宗家当主。鎌倉幕府第14代執権。第9代執権・北条貞時の三男。7歳で元服、9歳の時に貞時が死去したため、一門の面々が執権職を継ぎ、14歳で14代執権となる。24歳で病のために執権職を辞して出家。後継争いで周囲に騒動や事件が起こる中、在任中から倒幕を何度も企てていた後醍醐天皇たちとの戦いも続き、『元弘の乱』の最後の戦いといわれる『東勝寺合戦』で自害した。

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